神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の第33回「新会社『日商』が産声」をご紹介します。

2017.2.13.

神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の本編「第4部 荒波、そして(33) 新会社「日商」が産声 貿易部門継承 堅実に歩む」が、2月12日(日)の神戸新聞に掲載されました。

今回の記事は、昭和3(1928)年2月8日に開かれた日商(現・双日)の創立総会の場面から始まります。続いて、同社設立に当たり若い人材に期待する各務兼(かがみけん)(きち)、森広蔵(こうぞう)、下坂藤太郎らの財界人が出資・協力を惜しまなかったこと、同社の社是は「スモール・スロウ・バット・ステディ」(ちいさくて、歩みが遅くても堅実に)としたこと、再起は鈴木の名でという考えの金子直吉は日商設立の動きに反対したが認められなかったこと、落合豊一ら鈴木商店の退職金対策委員の奔走により多額の退職金支給が実現したこと、鈴木時代からのインド・タタ財閥の銑鉄販売権を日商が引き継ぐことができた経緯、鈴木の系列企業のその後の動向などが描かれています。

鈴木商店は昭和2(1927)年4月2日(土)に営業を停止(*1)し破綻(倒産)しましたが、決して破産等の法的手続にまで至ることはありませんでした。金子直吉は債権者から逃げも隠れもせず、鈴木商店の元経理部長・大塚清次、経理担当者・賀集益三(かじゅうえきぞう)(後・三菱レイヨン社長)らとともに銀行団などの債権者と個別に話をつけるべく根の続く限り幾度となく訪問して「示談」を進めたのです。

(*1) 翌月曜日の4月4日に支払停止となりました。

kanekonaokiti6.PNG朝に一回、昼に一回、同じ債権者にけんもほろろに追い返されてきた賀集に、金子は「もう一ぺん、行ってこい」と追い立てます。債権者のある銀行の重役は「私の銀行の入口には金子さんや君(賀集)の足跡の型が残っているでしょう。金子さんの熱と努力には負けました」と言って債権の減額を承諾してくれたといいます。

金子は債権者1人1人に()びて回り、また「責任は全部おれがかぶる」と言い、「自殺しないのもそのためだ」ともらしていたそうで、この言葉からも金子の覚悟のほどを窺うことができるでしょう。



その結果、整理会社・株式鈴木(株式会社鈴木商店)は債権者会議を開催することもなく、破産宣告を受けることもなく一切の債務を弁済したのち、破綻から6年を経て昭和8(1933)年末に清算を終了し解散しました。(*2)

(*2)最近、株式鈴木と鈴木合名(鈴木合名会社)の登記簿を調査したところ、清算の終了を意味する「結了」の表示がないことが分かり、両社とも登記上は現存していることが判明しました。部下の誰かが将来金子の鈴木商店再興の夢をかなえるべく、あえて登記上は「結了」にしなかったとも考えられなくはありませんが、今となってはこのことが何を意味するのかは謎に包まれたままです。

6年間でそこまで成し遂げることができたのは、鈴木側には何のごまかしもなく、隠し金もなく、純粋に事業経営上の倒産であったことを債権者側が確認したことによるものであり(桂 芳男著「総合商社の源流 鈴木商店」より)、その根底には金子の私利私欲のまったくない人柄があったからこそ、とも言えるでしょう。

鈴木商店破綻後、「倒産」がもたらす企業の社会的責任の深さを痛切に感じていた鈴木商店の元ロンドン支店長・高畑誠一(下の写真右)と元本店支配人・永井幸太郎(下の写真左)の二人は、当時およそ1,000人いた鈴木商店の元社員の身の振り方についてほとんど無給で全身全霊を傾けました。

takahatatonagai2.PNG永井がわずか1歳8カ月の次男を亡くしたのはこうした最中の昭和2(1927)年7月のことでした。永井は静かに愛息の葬儀をすませたあと3日後には再び上京するなど、不眠不休で東京・大阪間を往復しました。

そして、関係会社への転職の斡旋の結果、鈴木商店の元社員の多くは系列の大手である神戸製鋼所、帝国人造絹糸(後の帝人)、国際汽船などをはじめ数十社の関係会社に分散したと思われますが、一方で自ら就職先を探さざるを得ない者、また鈴木商店の残務整理のために残る社員も数多くいました。

一方、鈴木商店シアトル出張所長を務め、後に日商第三代社長となる落合豊一は鈴木破綻後に設けられた20名からなる退職金の対策委員の一人として奔走。全支店・出張所に(げき)を飛ばして焦げ付き代金の回収などにより想定以上の資金を回収(捻出)し、1人当たり平均3,000円~4,000円もの多額の退職金支給が実現しました。

鈴木系企業の取引は、その取引が広範囲かつ大量であっただけに内外におよぼした影響は極めて大きく、その調整・後始末に従事した方々の苦労が偲ばれます。昭和2(1927)年4月17日付東京朝日新聞は経済面のトップで「外国間貿易の地盤は消滅か、鈴木商店整理中の痛手」として鈴木商店が取り扱っていたポートランドの小麦、米国太平洋岸の木材、インドの麻袋など内地業者と無競争の地位にあった契約は輸送を中止せざるを得ない、と報じています。

そして、鈴木系企業はその多くが巨大財閥(三井、三菱、住友、藤山、大川、大倉)に移譲され、このことが財閥の新事業への進出を促進し、鈴木商店が築き上げた化学事業などが後にわが国の基幹産業として花開くことになります。

05_02_01_claude%20siki%20chisso%20kogyo-thumb-240xauto-111[1].jpg例えば、クロード式窒素工業のクロード法によるアンモニア合成技術は、彦島工場において高圧化学技術、化学プラント製作技術として確立されて東洋高圧工業他の母体技術となるとともに、そこで育った多くの技術者がわが国の近代化学工業・重化学工業の発展に大きく貢献するとともに近代的装置の国産化にも大いに寄与しました。

20世紀後半に急成長した石油化学工業は、長年培われたアンモニア合成技術がベースにあったからこそ急速に発展することができたといっても過言ではないでしょう。(左の写真は当時のクロード式窒素工業のプラントです)

その他、台湾銀行の管理に移った後に自主再建を果たした企業(神戸製鋼所・帝国人造絹糸、日沙商会、太陽曹達、豊年製油など)、あるいは解散、整理された企業も数多くありました。

takahataseiiti1.PNG高畑誠一(左の写真)と永井幸太郎の二人はそれまで築きあげて来た外国貿易における鈴木商店の地盤をみすみす三井や三菱に譲ってしまうことは見るに忍びず、鈴木商店があらゆる商売を捨てて再起できないことは到底考えられず、また、それまでに散り散りに分散し、あるいは鈴木の整理業務に残留したり海外の整理のために外国にとどまっていた人々のためにも、彼らの能力を発揮できる新たな会社を作ろうと決意し立ち上がります。

新会社は、整理会社・株式鈴木(株式会社鈴木商店)から、鈴木商店直系の子会社で綿花・綿糸・布羊毛等を取り扱っていた「日本商業」に営業を移譲した上で独立させることとし、高畑と永井は、新会社「日商」の新たな出資者集めと、大口債権者からの協力を得るために奔走します。

※当時、日本商業も莫大な負債(債権者の大半は台湾銀行、横浜正金銀行、六十五銀行等でした)を抱えており、親会社の鈴木商店破綻と同時に取引を中止し、整理に入らざるを得ませんでした。

morrikouzou.PNG台湾銀行の頭取・森広蔵(こうぞう)(左の写真)は鈴木商店破綻の責任をとって辞任しますが、「鈴木は破綻したけれども、鈴木の若い有為な人を散らばしてはならぬ」といい、高畑、永井と親しい同行の佐々木義彦にできるだけ協力するよう示唆します。

高畑と永井は神戸高商卒の2級上で東京海上火災保険常務であった鈴木祥枝(さかえ)の紹介により、"損保業界の父"、"三菱財閥の巨頭"とよばれ財界の大御所であった各務(かがみ)(けん)(きち)(東京海上火災保険会長)(右下の写真)にも出資を依頼します。出資を快諾した各務は女婿・沢田退蔵に次のように語っています。

kagamikennkiti.PNG「鈴木商店の若い優秀な人たちが集まって新会社を作るというので十万円出資することにした。これからの日本が繁栄するにはどうしても貿易をやって行かねばならない。現在、日本の貿易は三井と鈴木の二本柱で発展して来た。鈴木があのような姿で倒れたのは仕方がないとして、貿易の知識を持っている人達が散らばるのは何としても残念だし、日本の損失だ。そう思ったから、鈴木の若い人達が新会社を創るというので大いに同情し、日本の将来のために金を出したのだ。私はこれから老い先短い、若いお前達が、この新しい会社がどのように進んで行くか、しっかり見守っておれ」

18_01_shimosaka.jpgまた当時40代に入ったばかりの高畑と永井は新会社の社長はそれなりの大物であって欲しいと、かつて組織・経営改革のために鈴木商店に派遣された元台湾銀行の副頭取・監査役であった下坂藤太郎(左の写真)に社長就任を依頼します。依頼を受けた下坂は無出勤・無給で、盆暮れに灘の生一本の(こも)かぶりを届けてもらうことのみを条件として社長を引き受けるとともに、新会社に13万円を出資しました。

新会社の資本金100万円は、日本商業が本来、台湾銀行、横浜正金銀行、六十五銀行など金融機関の日本商業に対する債権を新会社の出資金に振り替えてもらった81.5万円と残りの18.5万円は鈴木商店の残党組39人他で捻出しました。この資本金100万円は高畑や永井たちにとって大金ではありましたが、かつての鈴木商店の80分の1の規模でした。

一方、金子直吉は鈴木の名を残した再出発のみを考えており、かつ貿易部門の日本商業だけを切り離しての再出発にはあくまでも反対でした。しかし、台湾銀銀行、横浜正金銀行など銀行団をはじめとする大口債権者は、新会社には鈴木商店の体質を持ち込まず若手を中心とする再建を条件としていたため、金子直吉の参加は認められず、さすがの金子もこの方針には反対不可能となりました。

そこで金子は昭和6(1931)年、太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)を持ち株会社として、鈴木家の再興をはかるべく再び事業経営に乗り出すことになります。

gousyoubiru.PNG昭和3(1928)年2月8日、鈴木商店の破綻からわずか300日余りで日商の創立総会が開かれ、本社を長堀橋の鈴木商店大阪支店から江商ビル(大阪市北区中之島)(右の写真)に移転し、わずかか40名でのスタートを切ります。

新会社の陣容は次の通りでした。(「日商四十年の歩み」より)

(役員)
・取締役社長 下坂藤太郎、常務取締役 高畑誠一、同 永井幸太郎、取締役 北浜留松、同 多賀二夫、同 和久宗七、同 下坂八郎、監査役 佐々木義彦、同 志田正雄

(本店)
・鉄材部 楓英吉、堀口菊蔵、今村頼吉、土居増喜、国沢敏馬
・綿糸布部 森本実(綿糸布)、紀田重治(毛類)、今村冬二郎、風間陸雄(人絹)、石本喜之助

(受渡)
・綿花部 久武昇助、内山健三郎、高原久、中川総夫、藤郷賢、長山泰憲、矢倉林三
・総務経理部 田所繁治、野原貫二

(神戸支店・支店長 北浜留松)
・小麦 落合豊一、西川政一 ・油脂 朝田栄三郎 ・ゴム 山本捨市 ・肥料 田辺清次郎
・経理 中川喜代造

(東京支店・支店長 下坂八郎)
・砂糖・雑貨 藤沢次郎、実保二 ・経理 渡辺周造

(上海出張所要員)
・山本六男、倉藤半太郎

以上、国内39名とロンドン駐在・宮口俊二、ボンベイ駐在・多賀二夫(取締役兼任)

高畑と永井たちは鈴木商店倒産の教訓から鈴木の(てつ)は踏まぬこと、堅実第一主義に徹し投機的な思惑を決して行わないと誓い「不況に強い堅実経営」を狙い、「スモール・スロウ・バット・ステディ(ちっぽけで、歩みも遅くても仕方がない。堅実に行こう)」を新会社のモットーとしました。そして、当時の社員はほとんどが一業種を一人で担当し、人手は最小限に切り詰められました。

某新聞は、「金も失い、本業捨てていったい何をやろうというのか、三年ももてば上出来」(「金」とは金子直吉のことを指す)と揶揄しました。しかし、新会社にはせ参じた仲間たちは仕事に対する情熱という点では世界中のどこの商社マンにもひけをとらぬ、一騎当千の(つわもの)ばかりでした。(日本経済新聞社「私の履歴書」(高畑誠一)より)

創業期の日商を支えたのは、当時日印貿易においてその占める地位が非常に大きかった鈴木商店から受け継いだタタ財閥の銑鉄ビジネスでした。堅実第一主義を誓った高畑と永井たちは数量を増せば確実に利益が上げられる永続性のある商品が重要と認識し、単なるコミッション・マーチャントと評されても甘んじる覚悟でした。そういう意味で日商の中心となる商売は、当面インドのタタ銑鉄とカリフォルニア石油の輸入以外にはないと考えていました。

tatanohonnbu.PNG鈴木商店ボンベイ支店長だった多賀二夫はそのままボンベイにとどまり、鈴木の破綻を知った他の大手商社(三井、三菱、古河、安宅など)他がタタの銑鉄輸出の代理権を獲得しようと一大攻勢をかける中、多大な尽力の末に銑鉄の販売代理権を鈴木商店から日商に引き継ぐことに成功します。

これもひとえにタタが鈴木商店に対して商業道徳上の恩義を感じていたためでした。この時内地で代理権継承に全力を尽くしたのが鈴木商店鉄材部の(かえで)英吉堀口菊蔵(後・日商の専務取締役)らです。(左の写真はボンベイ市のタタ財閥総本部「ボンベイ・ハウス」です)

鈴木商店とタタとの取引は、大正7(1918)年の第一次大戦中に(さかのぼ)ります。ロンドンでは高畑誠一と川崎造船社長・松方幸次郎が、大戦の状況を見るにつけ、日本は鉄源を押さえることが急務だと痛感し、タタの銑鉄に着目。鈴木商店は、タタと神戸製鋼所向けと川崎造船所向けに3年の長期輸入契約を締結しました。

jntata2.PNGところがその後、イギリス政府が第一次世界大戦勃発に伴う鉄不足によりインドから英国向け以外の輸出を一切禁止したため、日本への長期供給契約は凍結されてしまいます。大戦が終結すると銑鉄価格は暴落します。禁輸令が解けると、タタは鈴木商店に対して暴落前の契約価格での引き取りを求めましたが、鈴木商店は市況価格での引き取りを主張。双方妥協点が見出せず、当時の第一銀行頭取・渋沢栄一が調停に乗り出し、何とか双方損失を被りつつも合意に達し、鈴木商店は約束通り取引の全量を引き取りました。(上の写真は創始者J・N・タタ(左)とその甥でタタ財閥を発展に導いたR・Dタタです)

後年タタグループのJ.R.Dタタ元会長(R・Dタタの長男)は、「今日世界で何人がかかる信義に基づく取引をするだろうか。タタはその歴史上、日商には多大なる恩義がある」とタタグループ、そして日本の外交官、銀行マンなどの前でスピーチしたといいます。このエピソードは現在の双日にも語り継がれています。

アメリカのカリフォルニア・リッチフィールド社の石油の輸入も新会社の大きな柱となりました。鈴木商店時代の石油の取扱いは主に旭石油(*3)にて行い、同社は主に中近東産を取り扱っていました。

(*3) 大正11(1922)年、鈴木商店系列の帝国石油と(旧)旭石油が合併し、新生・旭石油として再発足。旭石油は昭和17(1942)年8月1日をもって早山石油・新津石油と合併し、昭和石油(現・昭和シェル石油)が誕生します。

rittifiirudosya.PNG第一次世界大戦後、アメリカではカリフォルニアの石油生産が拡大。大手は他社に抑えられていましたが鈴木商店雑貨部の吉田秀太郎は比較的小規模のリッチフィールド社と交渉し、代理店契約の段階まで来たところで鈴木商店破綻という事態に直面します。そこで、吉田は代理店契約を一時的に神戸製鋼所に寄託し、その後に後継会社(日商)に移そうと考えました。(左の写真はリッチフィールド社の石油精製工場です)


shousuke2依岡省輔.jpgこの時、大いに援助の手を差し伸べたのが神戸製鋼所専務の依岡省(よりおかしょう)(すけ)(右の写真)で、最後は元鈴木商店ニューヨーク支店の城戸陽の尽力によりこの代理権は支障なく日商に継承されました。

日商は、その直後に行われた海軍向けの重油の入札を大量に落札し、海軍をはじめ日本石油、小倉石油、早山石油、旭石油、出光興産などに原油、重油、潤滑油の納入において進出する足掛かりを作りました。

この日商の揺籃(ようらん)期を支えたタタ銑鉄取引とリッチフィールド社の石油取引の責任者であった(かえで)英吉と吉田秀太郎は昭和7(1932)年、設立後初の生え抜きの取締役として選任されます。

nissyoudaiikaikessann.PNG日商の第一期決算(昭和3年2月~同年6月)では売上高296万円、純利益26円を計上します。タタ銑鉄の輸入取引は第一期決算から大きな支柱となっており、金属部門の売上だけで売上総額の37%を占めました。

日商は創業からしばらくの間は完全に台湾銀行の管理下に置かれ、毎期の決算は詳細に同行に報告し、不審な点があれば直ちに説明を求められました。しかし、昭和7(1932)年に至り純利益95,205円(1月~6月期)、純利益102,680円(7月~12月期)を計上することができ、これにより設立当初の債務はようやく完済の運びとなりました。

昭和9(1934)年、資本金を100万円から300万円に増資。この際、太陽曹達の鈴木岩蔵(鈴木岩治郎とよねの三男)が筆頭株主となり、その後、太陽曹達が日商の筆頭株主となりました。これに伴い、日商は神戸製鋼所、播磨造船所、帝国人造絹糸など旧鈴木商店系の企業との関係を深めていきました。

nagaikoutarou1.PNGアメリカ軍による連日の空襲のため交通は途絶え社員の出勤はままならず、会社に着いても仕事がほとんどない状況であった敗戦直前の昭和20(1945)年7月、高畑誠一が会長に、永井幸太郎(右の写真)が社長に就任します。

昭和22(1947)年2月、永井は時の吉田茂首相から乞われる形で社長を辞任し、第三代貿易庁長官に就任します。その間、日商は永井の復帰を待つべく社長職を空席としました。そして昭和24(1949)年2月、永井は社長に復帰しますが、永井の貿易庁長官就任という社会的ステータスは日商の社員に誇りと自信を植え付けることになりました。

nissyougatyuukaisitatannkaa.PNG日商は、戦後民間企業として初めて米国・ニューヨークに事務所を開設。昭和25(1950)年、商社マンの海外出張が解禁されると高畑誠一は真っ先にインドのタタを訪問し、銑鉄の輸入を再開させます。

昭和26(1951)年には高畑自ら交渉して民間貿易再開後初の輸出船舶の契約を仲介。日商はその後船舶の輸出について独自の地歩を築き、戦後世界一の船舶輸出国となったわが国の船舶輸出の2割前後を取扱い、常に業界をリードしました。

bouinngusyatonopaatii.PNG昭和27(1952)年には戦後初のニューカレドニアからのニッケル鉱石の輸入を実現します。昭和29(1954)年にはトルコ向けに戦後最大のプラント輸出となる綿紡機を成約。昭和31(1956)年にはアルゼンチン向けに日本初の鉄道輸出を成約します。

また同年、米・ボーイング社の対日代理権を取得し、マクダネル・ダグラス社とも提携し航空機ビジネスを積極展開していきます。(右の写真中央はボーイング社とのパーティー会場の高畑誠一です)

戦後、旧鈴木商店系の企業が結束し高畑の人脈がフルに活かされたのが、昭和31(1956)年8月に結成されたFAPIG (First Atomic Power Industry Group:第一原子力産業グループ)でした。発足時のメンバーは富士電機を始めとする古河系企業、川崎重工業を始めとする川崎系企業、神戸製鋼所、日商の旧鈴木系企業、清水建設、それに第一銀行の計16社でした。これらの中堅企業が原子力産業に取り組むために団結したことは当時の経済界において大きな注目を集めました。昭和34(1959)年、日本原子力発電(株)はFAPIGと東海発電所建設に関して単独交渉権を獲得します。

nissho_08_01_nagaitakahata.jpg昭和29(1954)年11月、永井幸太郎は健康上の理由により社長を勇退し、専務の落合豊一が第三代社長に就任。昭和33(1958)年10月には、落合が死去し、西川政一が第四代社長に就任します。

昭和38(1963)年、日商は創業35周年を迎え、高畑誠一は会長を勇退し相談役に就任します。(左の写真は昭和41年「第7回大阪国際見本市の会場での高畑誠一(左)と永井幸太郎です)

日商創業40周年を迎えた昭和43(1968)年5月、日商は岩井産業(文久2年創業の岩井分助商店を源流とし、明治29年岩井商店を創業)と合併し、日商岩井(岩井英夫会長、西川政一社長)が誕生します。当時日商は業界7位、岩井産業は業界10位で、合併により業界第5位の総合商社となりました。



平成15(2003)年4月、日商岩井はニチメン(明治25年創業の日本綿花を源流とし、後に日綿實業に商号変更)と経営統合し、ニチメン・日商岩井ホールディングスを設立。翌平成16(2004)年4月には双日が発足し、現在に至っています。

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