依岡省輔

得意の弁舌を活かし、田宮嘉右衛門とのコンビで神鋼の基礎を築き、後年は日沙商会に捧げる

生年 明治6(1873)年
没年 昭和12(1937)年  

金子直吉と同郷の高知出身。鈴木商店で金子直吉の先輩幹部社員であった坂出楠瀬の身内ということで、鈴木の入店を希望。鈴木入店に際し金子より「おまんの最も得意とするところは何ぜよ」と問われ、依岡は、「私は別段優れたものは持っていません。強いていえば、体が大きいから人並み以上に大食いすることと、知事や将軍を説き伏せることくらい」と答え、金子に認められたという逸話がある。依岡は、期待通りの働きで直営・神戸製鋼所の製鋼材料を呉海軍工廠へ売り込みに手腕を発揮し、神戸製鋼所専務に抜擢されると田宮嘉右衛門とのコンビで神鋼発展の基礎を固めるのに大いに貢献。                

依岡は、鈴木本体の事業にも多くの貢献をしている。東洋ファイバー、日本冶金(現・東邦金属)の事業も依岡の発案によるものである。日沙商会については、兄省三が立ち上げたものだが、それから一年余りで急逝したため、当時神戸製鋼所に在籍していた省輔が同社の社長を兼任することとなった。

明治44(1911)年サラワク政庁は、鈴木商店に対して、農園、土地の租借認可を下した。こうして日沙商会は、依岡省輔が金子直吉の委嘱を受けて経営にあたることとなり、鈴木商店の海外事業会社としてボルネオのゴム栽培、石炭採掘を中心に運営された。日沙商会は、大正6(1917)年、株式会社に改組し、神戸に本社を、クチンに支店を設けた。鈴木系の東工業のゴム製造を継承して、ゴム栽培から製造までの一貫体制を整えた他、大正8(1919)年には、ファイバー製造事業も行なった。(東洋ファイバーに継承)

サラワク政庁と鈴木商店の信頼関係は、依岡省三・省輔兄弟の人柄に依るところ大きく、鈴木破綻後も続き、昭和12(1937)年、日沙商会の農園3,600エーカーの租借権が999年間という半永久的な期間認められたことからも証明されよう。昭和4(1929)年には、日沙商会の企画・立案により国王(ラジャ)夫妻の来日が実現し、これを契機に日本(沖縄)からの米作移民が入植して日本とサラワクの友好関係がさらに深まった。日沙商会の事業は、第二次世界大戦の敗戦により40年近い歴史の幕を下ろした。

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