鈴木商店こぼれ話シリーズ①「世界記憶遺産・日本登録第一号の山本作兵衛と神之浦炭坑」をご紹介します。

2017.2.15.

山本作兵衛と炭坑画.jpg鈴木商店にまつわる"こんな話・あんな話"を"こぼれ話シリーズ"としてご紹介します。鈴木商店の知られざる話や逸話を通して、鈴木商店の新しい側面をご理解いただければ幸いです。

ユネスコ(国連教育科学文化機関)は平成23(2011)年、福岡県田川市などが所有・保管する炭鉱記録画家・山本作兵衛の絵や日記など697点を「世界記憶遺産」に登録した。日本での登録第1号である。(写真は山本作兵衛とその炭鉱画)

山本作兵衛(明治25(1892)5月17日~昭和59(1984)年12月19日)は、福岡県出身の炭鉱労働者、炭鉱記録画家。尋常小学校卒業後、明治39(1906)年に山内炭坑(現・飯塚市)の炭鉱員となり、以後、採炭員や鍛冶工員として筑豊地域の中小の炭鉱を転々として働いた。63歳で炭鉱の警備員として働き始めたころ、当時の生活を伝えようと炭鉱の絵を描き始めるようになり、92歳で亡くなるまで描いた絵は2千枚近いと言われる。

作兵衛は、 暑く暗い地の底で石炭を掘る男と女の姿、道具、共同風呂やこどもたちの遊び、縁起や迷信等々,炭鉱で働く人たちとその家族が暮らす共同社会の全てを記録として残している。

山本作兵衛年譜によれば、大正6(1917)年、作兵衛25歳の時、前年まで働いていた「赤坂炭坑」から鈴木商店系の「神之浦炭坑」(現・飯塚市)に転坑している。しかし、ここも長続きせず、まもなく「上三諸坑」に転坑し、その後も数か月毎に転坑を繰り返している。50年間の炭坑生活は、筑豊周辺の延べ21か所に及んだ。

鈴木商店の炭鉱事業の出発点となったのは、大正初期に開発に乗り出した福岡・嘉穂郡穂波村(現在の飯塚市)の小炭田「大徳炭鉱」と「神之浦炭坑」であった。この時期、福岡内陸部には大小多数の炭鉱が林立するようになり一大産炭地として発展した。

大徳炭鉱は大正4(1915)年、鈴木商店と関係のある中島徳松の経営となり、その後神之浦炭坑も中島鉱業に売却、いずれも中島鉱業系「飯塚炭鉱」の一部となった。飯塚炭鉱は筑豊炭田を構成する有力炭鉱となったが、経営難から三菱鉱業の経営に変わった。

神之浦炭坑には、大正期に活躍した絵師・山本作兵衛や西行・良寛を敬慕した歌人・大坪草二郎などが一時働いていたことが記録されている。

大坪草二郎(明治33(1900)~昭和29(1954)年)は、大正7年、大里・門司・彦島など各地を転々とし、人夫や船渠工事の作業員をした後、田川郡添田町の峯地炭鉱に入り、その後は鈴木商店系の「神之浦炭坑」を始め筑豊の炭鉱を渡り歩いた。後年、上京し「アララギ派」会員となり、薬売りや工事の人夫をして働く傍ら、夜は原稿執筆に没頭して処女作『雲水良寛』を完成した。 

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