神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の第27回をご紹介します。

2016.12.12.

神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の本編「第3部 頂点に立つ (27) 苦難の焼き打ち「市民のため」伝わらず」が、12月11日(日)の神戸新聞に掲載されました。

今回の記事は、大正7(1918)年8月12日の夜、本店焼き打ちの報を受けた鈴木商店番頭の柳田富士松が現場に駆け付ける場面から始まります。続いて、お家さん・鈴木よねが鈴木家旧本宅から女中に手を引かれて2階の屋根づたいに脱出したこと、柳田家が幹部社員の避難場所になったこと、無警察状態の中、大本組の創業者・大本(ひゃく)(まつ)や三輪組の創業者・三輪徳太郎らが鈴木を守ろうと動いたこと、それまで金子直吉が一切の弁明をせず、焼き打ちから4か月後にようやく鈴木の潔白を世に問うた論文「米価問題と鈴木商店」が発表されたことなどが描かれています。

suzukisyoutenhonten(エヌアイコミュニケーション修正後)(28.6.7).jpg大正7(1918)年に全国各地で起きた米騒動は神戸にも飛び火し同年8月12日、鈴木商店は東川崎町(現・中央区栄町通7丁目)の本店(左の写真)を焼失するという悲劇に見舞われました。

大正7(1918)年8月13日(火)付神戸新聞に焼き打ち当日の詳しい状況が記されていますので、次にその主要部分をご紹介しましょう。

なお、下の写真は現在の鈴木商店本店の跡地(手前のマンションの場所に位置)の様子です。


神戸市の大暴動 群衆遂に暴徒に(へん)ず=随所に放火し米商の被害甚大=本社亦奇禍(きか)(かか)る=手緩き警官隊の警戒振り
2016120409400001.jpg十一日夜湊川(みなとがわ)公園に集(だん)を作り翌午前二三時の頃にかけて市中を練り歩きたる群衆は時刻の進むに()れて漸次騒擾(そうじょう)的色彩を帯び(きた)り、(ふつ)(ぎょう)前一旦解散を見るに至りたるも、十二日午前六時頃に至るやと何處(いつく)よりもなく白(しゃ)()足袋(たび)(はだ)()の、手拭(てぬぐい)にて後鉢巻(はちまき)をなせる七十餘名(よめい)の一隊が勢ひ込んで公園内に練り込み來り、折柄多数の納涼客及び事あれかしの()()(うま)連が居合せたることゝて、(ここ)(たちま)ち一大勢力を作り約三千五百名と註せらるゝ大衆がこれより先配置せられたる多數(たずう)私服巡査の()()鎮壓(ちんあつ)にも耳をかさず、殺気を帯び、雪崩を打ち、ワッショヽの懸け聲物凄く奔流(ほんりゅう)の如き勢いを以て北新開地を一路電車通に出で、此處(ここ)に先ず二隊に分れ一隊は西兵庫方面に他の一隊は多聞(たもん)通を東に急進したり。

(しこう)して多聞通方面に向へる主働隊は行くヽ勢力を増大しつゝ有馬道附近にて更に三隊に分れ、一隊は楠町六丁目の兵神舘を襲いてこれを破壊し、又一隊は荒田町方面に向ひて同方面一帯の白米店を片つ端より襲撃したるが、本隊とも云うべき大集(だん)は『鈴木を(ほふ)れ!ヽ』と呼號(こごう)しつつ(まっ)(しぐら)に相生橋を越え大威聲(いせい)を揚げて東川崎町一丁目の鈴木商店に殺到せり。

▼鈴木商店に殺到 鯨波(げいは)(こえ)、瓦の雨
komesoudou.PNG斯くて鈴木商店へ押寄せんとする一隊は()の数約八百名、蜒蜿(えんえん)たる長蛇の列を作り、多聞通を眞一文字に東行くヽ盛んに(とき)()げつゝ相生橋を越え相生橋署前を南下、商業會議所前より東折して(うしお)のごとく宇治川筋我が神戸新聞社前なる鈴木商店に殺到せり、時に午後八時二十分。



これより先同商店にては朝來既に群衆の押寄せ來るべきことを豫期(よき)し、警戒大いに努むる(ところ)あり、殊更に正面入り口を開放し(すこぶ)る平静を装ひゐたるが、群衆殺到すると見るや、(かね)て警戒のため出隊中なりし相生橋署の制服巡査十数名は手にヽ警察(ちょう)(ちん)を振り(かざ)してズラリと入口前に整列警戒を行ひたるため、(さす)がの群衆も手の出し様なく、最初のほどは(いたずら)に遠巻きに巻きたてゝ、物凄き鯨波(げいは)を浴びせ()くるのみなりしが、()くて時の移るに從ひ東西南北随所より押寄せ來れる半()()的群衆を加へて、勢ひ愈々(いよいよ)加はるに至り、ワツヽと(ののし)り立て叫び立つるを見る、群衆中より鈴木商店に向かって投石を開始したるものあり、一弾又一弾と屋根瓦を破って瓦落々々と音を立つるを聞くや、さらぬだに熱狂的氣分にそゝり立てられたる群衆は、(ここ)(ごう)(ぜん)として勢ひを()し、(つい)(すう)十名一(だん)となって商店玄關(げんかん)に殺到しし、制止の警官を突き退け押倒して店内に闖入(ちんにゅう)するに至れり。

▼突如火の手揚がる 鈴木家舊宅(きゅうたく)の家財()かる
斯かる一方爾餘(じよ)の群衆は間断なく投石を(つづ)け、(とき)()げて盛んに聲援(せいえん)しつゝありしが、同九時頃市電西行第七(ごう)電車が乗客を満載して我が神戸新聞社前なる宇治川彎曲(わんきょく)線に(さし)()ると見るや『電車を停めろ!』と絶叫したるものあり、それと聞きたる群衆はドッと(ばか)りに電車の進路に殺到し、(ここ)に市電東西の運轉(うんてん)を全く休止の止むなきに至らしめて勢ひ更に(たかぶ)れり。

然るにこれより先此一隊の別動隊とも(しょう)(そう)(ぜい)約十五名の集團(しゅうだん)あり、早くも榮町四丁目なる鈴木家の舊宅(きゅうたく)に押寄せこれ(また)一大示威運動を試みつゝありしが、その中の數名(ずうめい)(たちま)ちにして同家に闖入(ちんにゅう)手當(てあた)り次第家財家具を街路に投出し、『婆アを出せおよね婆アを出せ!』と喧囂(けんごう)しつゝありしが、何者ともなく火を付けろと叫ぶや、突如山の如く積上げたる家財家具に火を放ちその燃上るを見極めたる後、口々に(ばん)(ざい)高唱し、鈴木商店へ!鈴木商店へと叫び立てつゝ一路西に向ひ榮町電車線路(づた)ひにワッショイヽと疾風の如く宇治川筋に押寄せたり。時に恰も(あたか)九時。

suzukisyoutenyakiuti3.PNG▼鈴木商店()かる 石油を注ぎて放火
斯くて鈴木商店前なる大群衆は、益々殺氣を加へ、警官隊と各所に衝突し一大混亂(こんらん)惹起(ひきお)したる外、投石又投石、同商店の窓硝子を大半破壊し尚店内に侵入したる(ずう)十名は階上階下を暴れ廻って事務室その他の器具什器を滅茶苦茶に叩き壊すなどその猛威却々(なかなか)に侮るべからず、警官隊は拱手(きょうしゅ)傍観するのみの有様となり(ほとん)ど無警察状態を現出せり、然るにこの時前記鈴木家舊宅(きゅうたく)を襲い、家財家具に放火して引揚げ來れる一隊が警官隊の非常線を突破して來り合したるため、群衆の氣勢さらに倍加して、(ここ)に單なる騒擾(そうじょう)を脱して(しん)に一大暴動と(へん)じ、(ずう)(せん)の群衆亦暴徒と化して阿修羅の如く荒れ狂ひしが、何者の兇悪(きょうあく)ぞや、店内深く亂入(らんにゅう)して各室内に石油を注ぎ(つい)に放火するに至りしかば、黒煙(たちま)ち四方より渦巻き起り、同時に火柱天に沖して猛烈なる勢を以て燃上るに至り須臾(しゅゆ)にして全建築物は猛火の(うち)に没したるが、約二時間にして全く之を()(ゆう)()せしめ、暴徒の歓呼して快哉(かいさい)を叫ぶ様物凄しとも物凄し」

一方で、鈴木商店の関係者は、鈴木および傘下の企業に恩義を感じていた人々の身を挺した働きにより無事難を逃れることができました。

P1030625.JPG米騒動の際、大本組の創業者・大本百松は「鈴木商店が危ない」という知らせを受け、総勢30名を引き連れて神戸製鋼所に駆け付けると、「鈴木よね社長が須磨の別荘に避難されている。大本組はよね社長の護衛をしてほしい」と頼まれ、須磨の別荘前の殺気立った民衆に「この家は、わしが預かっているので、わしが話を聞こう」と民衆を落ち着かせ、退散させたといわれています。

鈴木よねは、この行動を喜び、金一封を渡そうとしましたたが、「大本百松は、金で命は売りません」と頑として受け取らなかったといいます。この時の縁により、大本組は鈴木商店の関係事業に参加するようになり、特に鈴木商店が出資する信越電力・中津川発電所の難工事を完工させ、さらなる発展の基盤をつくりました。

oomotohyakumatukihu.PNGその後、大本組は昭和8(1933)年に岡山に本店を移し、現在は建築を中心に土木・海洋土木を含めた全分野をカバーする中堅ゼネコンとして事業を展開しています。昭和52(1977)年、大本組が創業70 周年を迎えるに当たり、相生市の同社本店跡地に大本百松翁顕彰碑(上の写真)を建立しました。

大本は播磨造船所のまちづくりにも尽力し、邸宅近くの旭の弁天社(厳島神社)の鳥居脇の玉垣には大本百松の名が刻まれています。(左の写真)



大本百松、大本組については次のページをご覧下さい。

人物特集>大本百松
ご協力企業>株式会社大本組

米騒動の際には「神戸製鋼所も米を隠している」との噂が流れ、実際同社の倉庫の(けい)()が米と間違われて焼き打ちにあいます。

miwatammiya.PNG神戸製鋼所の支配人・田宮嘉右衛門(上の写真右)邸も焼き打ちに遭う恐れがあったため、田宮を畏敬し同社の荷揚げ・運搬・積み出し荷役、土木工事等の専属請負業者として神戸製鋼所のためなら「水火も辞せず」との思いを持っていた三輪組(現・三輪運輸工業)の三輪徳太郎(上の写真左)はじっとしておれず、「田宮さんの家を守ろう」と味噌樽を買い集め、当時の確実な消火法であった味噌で田宮邸をすっぽり塗り潰す方法により難を逃れたという逸話も残っています。(「海鳴りやまず 第二部~神戸近代史の主役たち~」神戸新聞社編 より)

田宮嘉右衛門、三輪徳太郎、三輪運輸工業につきましては次のページをご覧下さい。

人物特集>田宮嘉右衛門
人物特集>三輪徳太郎
ご協力企業>三輪運輸工業株式会社

なお、金子直吉は支配人・西川文蔵らの説得にもかかわらず、日頃から頑なに「鈴木は何も悪いことをしているわけではない。鈴木が潔白であることは眼のある人なら知っている」、「分かる者には分かる」と一切の弁明をしませんでした。

焼き打ちから4か月後の大正7(1918)年12月、ようやく被害当事者の立場から永井幸太郎執筆によるデータと事実に基づいて鈴木商店の潔白を世に問うた「米価問題と鈴木商店」と題する論文が公開されたことは2016.12.5付編集委員会ブログでもご紹介させて頂いたところです。

下記関連リンクの神戸新聞社・電子版「神戸新聞NEXT」から記事の一部をご覧下いただくことができます。

神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の「第3部 頂点に立つ」は今回が最終回となります。来年1月8日(日)からは「第4部 荒波、そして」が始まりますのでどうぞご期待下さい。

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