大本百松

播磨造船所の指定請負業者、米騒動の際に鈴木よねを助け

大本百松

生年 明治24(1891)年
没年 昭和36(1961)年

岡山県倉敷市に生まれる。小学校を卒業すると家庭のかまどから出る灰を集めて、農家に肥料として売ったり、炭団屋へ原料として持ち込む「灰買い」という商売を始めた。明治40(1907)年に、弱冠16歳で建設請負業に身を投じ、日本一若い組長となる。その後、事業に失敗するも、23才の時に、拠点を因島に移し、大阪鉄工所、因島造船所の設備工事を請負い、ここで鈴木商店系の備後船渠の技師長三上英果の知遇を得る。三上はその後、播磨造船所(現・IHI相生工場)の技師長に任ぜられ、大本百松も三上の推薦で、造船所の拡張工事を請け負う。

米騒動の際、三上から「鈴木商店が危ない」という知らせを受け、総勢30名を連れて神戸製鋼所に駆けつけると「鈴木よね社長が須磨の別荘に避難されている。大本組はよね社長の護衛をしてほしい」と頼まれた。須磨の別荘にかけつけると、物見高い野次馬が邸宅を取り囲み、大本百松は民衆を落ち着かせ退散させた。よね社長は、この行動を喜び、金一封を渡そうとしたが、「大本百松は、金で命は売りません」と頑として受け取らなかったという。

これを機に、鈴木商店の関係事業に大本組が参加するようになり、今日の大本組の基礎をなした。大本百松が請け負った鈴木系の事業の中で、信越電力中津川水力発電所工事は、豪雪の中の難工事であったが、2年かけて大正13(1924)年に完工させる。この仕事の成功によって利益を得た大本百松は故郷の(現)倉敷市連島町鶴新田の全300戸に電灯を寄付している。

その後、地元岡山県の用水路新設工事を請負い、業界の地位を高め、地元岡山県の建設業界に貢献していく。

大本百松については大本組ホームページにある「百松魂-明日への挑戦-」を御参照。

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