神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の第26回をご紹介します。

2016.12.5.

神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の本編「第3部 頂点に立つ(26) 米騒動の「足音」迫る 怒る数千の群衆 本店襲撃」が、12月4日(日)の神戸新聞に掲載されました。

今回の記事は、大正7(1918)年8月10日朝、「米価暴騰!大暴騰!生か死か。...」と書かれた紙が貼られた神戸・新開地に近い空き家の板塀前の場面から始まります。続いて、同年7月、富山において第一次世界大戦に起因する米価高騰に誘発され米騒動が起こったこと、神戸でも米など諸物価の奔騰により人々の生活は困窮し貧富の差も広がったこと、大阪朝日新聞が米の買い占めなどの誤報を流し鈴木商店を激しく攻撃したこと、8月12日の夜、湊川公園に集結した民衆が暴徒化し、その一隊が鈴木商店を襲撃・放火したことなどが描かれています。

komesoudouhassyounoti.PNGわが国の資本主義経済は第一次世界大戦の勃発に伴う大戦景気により急速に発展しましたが、その反面諸物価の高騰がはなはだしく、大戦末期の大正7(1918)年には民衆の実質賃金は大戦前の70%以下に低下しました。

米価も政府の米価調整失敗に諸事情が重なり急上昇します。同年の春1升(約1.8㍑)24銭であった内地米が秋には50銭に達し、民衆は深刻な食糧危機と生活難に陥りました。



こうした状況下の大正7(1918)年7月23日、富山県魚津市の漁師の主婦たちにより同県産米の県外移出阻止運動(米穀店襲撃等)が発生し、いわゆる米騒動は瞬く間に全国に飛び火していきました。

上の写真は魚津市の「米騒動発祥の地碑」です。魚津市では米騒動が起きた7月23日を「魚津米騒動の日」として後世に伝えるべく、この地を発祥の地として顕彰しています。

民衆は米の安売りを要求し、米の投機商人、米穀取引所をはじめ高利貸しや地主なども群衆の襲撃の対象となり、米騒動は9月19日までに1道3府32県、約500カ所で発生し、直接参加者は約70万人と推定される自然発生的な大衆闘争としてはかつてない異例な規模にまで発展しました。

suzukisyoutenhonten(エヌアイコミュニケーション修正後)(28.6.7).jpg当時鈴木商店は米を買い占めるどころか逆にラングーン・サイゴン米など外米を積極的に輸入し、さらには朝鮮米の輸入による米価調整を政府に具申したほどであったにもかかわらず、全国的な米騒動を機に鈴木商店が米の「買い占め」、「売り惜しみ」を噂され、マスコミによってその元凶であると盛んに報道されました。

とりわけ、時の寺内正毅(まさたけ)内閣に対し非立憲的であるとして強硬な反政府論陣を張っていた大阪朝日新聞の同内閣攻撃の鉾先(ほこさき)が鈴木商店にも向けられ、悪徳商社のイメージが増幅されたことは鈴木にとって大きな痛手でした。

当時の寺内閣の事実上の副総理は外務大臣・後藤新平でしたが、後藤が金子直吉と昵懇(じっこん)の間柄であることは周知の事実でした。このため、同紙は米価騰貴にからんで米を買い占めていると鈴木商店を激しく攻撃したのです。

金子直吉が大正7(1915)年6月5日付で鈴木商店の外米担当者に発送した業務指令には、外米輸入指定商としての鈴木商店の基本方針が示されています。

そこでは、外米輸入そのものの利益よりも奉公の務めを全うし、かつ将来の国家的事業を終始する基礎を築くことが狙いとされており、このことからも「買い占め」の噂は全くの誤解によるものであったことが理解できるでしょう。

当時の神戸には鈴木商店が米を買いつけているという噂だけで、民衆の憤激をあおるのに充分なほど異常なムードが蔓延していました。さらなる風評・流言が流布する中、同年8月12日の夜、湊川公園に集結していた3,500人もの民衆は時の進むにつれて次第に殺気を帯び、暴徒化していきました。

その後民衆は二手に分かれ、多聞通を東進した隊列はさらに分かれて本隊とも言うべき大集団が神戸市東川崎町(現・中央区栄町通7丁目)の鈴木商店本店(上の写真)を襲って火を放ち、鈴木商店躍進の象徴であった鈴木商店本店は遂に灰塵と化してしまいました。(下の写真)

suzukisyoutenyakiuti3.PNG鈴木商店は米騒動が勃発する2年前の大正5(1916)年、関西建築界の長老・河合浩蔵の設計による当時としては珍しいコロニアル風建築物であった神戸の「みかどホテル」を後藤勝造(後藤回漕店創業者)から譲り受けて改修の上本店とし、翌年には売上高で日本一の総合商社となっていました。鈴木商店本店焼き打ちは、まさに鈴木商店の絶頂期を突然襲った出来事でした。

suzukisyoutennhuusiga.PNG鈴木商店、神戸新聞社を焼き払った群衆は、兵神館、日本樟脳、神戸製鋼所の米蔵等々も次々に焼打ちし、周辺民家、酒屋、米屋を襲撃・略奪しました。

左の写真は当時の風刺画5枚のうちの1枚(鈴木商店を焼き打ちした群衆が激高してワッショイワッショイ)です。この風刺画は米騒動に雷同した庶民の感情をそのまま伝えたものといえましょう。


折しも金子直吉は、日米船鉄交換契約の折衝のため、ローランド・S・モリス駐日米国大使との会談に向かう上京の車中で本店焼打ちの報を受けます。

nagaikoutarou.PNG日頃から金子は、頑なに「鈴木は何も悪いことをしているわけではない。鈴木が潔白であることは眼のある人なら知っている。」と一切の弁明をしませんでしたが、同年12月になってようやく被害当事者・鈴木商店の立場から、永井幸太郎(左の写真)執筆による「米価問題と鈴木商店」と題する冊子が公開されました。

この「米価問題と鈴木商店」では鈴木商店がいかに国益を重視し、商売・利益を度外視して政府の米価安定策に貢献したかを明らかにし、 買い占め等の風評が全く根拠のないものであることをデータと事実に基づいて自ら説明し、その潔白を世に問うています。



「米価問題と鈴木商店」、永井幸太郎については次のページをご覧下さい。

編集委員会ブログ(2016.4.25):「米価問題と鈴木商店」をご紹介します。

人物特集>永井幸太郎

帝人の社史「帝人のあゆみ」第1巻「一粒の麦」(昭和43年5月20日発行)第3章 帝國人造絹絲株式会社にも(3)米騒動と鈴木商店の焼打と題し、鈴木商店本店が焼き打ちの被害を受けた経緯が詳述されています。

nezumi.PNGまた、小説家・城山三郎の代表作『鼠―鈴木商店焼打ち事件―』は、神戸の米騒動を題材に鈴木商店が誤報・妬みなどによって狙い撃ちにされたことを丹念な取材による数々の証拠を用いながら説明。永年にわたって不当な評価を受けてきた鈴木商店の汚名を(そそ)いだ労作といわれています。

同著においては、鈴木商店の支配人・西川文蔵がロンドン支店長・高畑誠一に宛てた手紙(大正7年8月15日付)も紹介されており、焼き打ちの生々しい状況が被害者・鈴木商店の立場から臨場感あふれる描写をもって記述されています。




帝人の社史「帝人のあゆみ」第1巻「一粒の麦」、城山三郎著「鼠―鈴木商店焼打ち事件―」については下記関連リンクをご覧下さい。

下記関連リンクの神戸新聞社・電子版「神戸新聞NEXT」から記事の一部をご覧下いただくことができます。

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