西川文蔵

鈴木商店の柱石として、金子直吉の縦横な活躍を支えた名支配人

生年 明治7(1874)年
没年 大正9(1920)年

滋賀県高島郡今津町の生まれ。滋賀県商業学校(現・滋賀県立八幡商業学校)を卒業後、東京高商(現・一橋大学)に進んだが中退、鈴木商店に入店。近江商人の血をひく西川は、貿易商人への道を志し、鈴木商店へ入店すると店主鈴木岩治郎より「学卒者第一号」として遇された。

金子直吉が担当する樟脳部に配属された西川は、たちまちその才能を認められ、金子の補佐役として実力を発揮し、金子の推薦で支配人となる。鈴木商店にとっても金子にとってもかけがえのない存在となって行く。金子が縦横に活躍し、鈴木発展の牽引車となって「まっしぐら」に進めたのは、西川の実務面での支えがあったからに他ならない。西川は、まさに鈴木の「柱石」と言えよう。金子の西川に対する信頼は絶大で、ゆくゆくは後継にと考えていた。また、個人的にも自分の長男を「文蔵」と名づけたほどで、西川への信頼の厚さを示している。西川は、竹を割ったような性格そのままに自身も竹を愛し、「脩竹」と号した。

大正7(1918)年の米騒動に端を発した鈴木商店焼打ちに際しては、支配人として西川は、鈴木の潔白の弁明に追われ、マスコミの鈴木攻撃に対する憤懣を吐露することもたび重なり、心労から大正9(1920)年、47歳(満46歳)の若さで急逝した。西川の死をことのほか悲しんだのは、金子直吉で自らを西川の「未亡友人」と名のって次の句を残している。

“梧桐(あおぎり)の散り相もなき葉色かな   未亡友人 白鼠”

また、西川は若手社員を公私にわたり面倒みており、中でも見習い店員の一人・須原政一少年の才能を見込んで自宅に住まわせ、商業学校へ通わせた後、一旦鈴木を退職させて神戸高商を卒業させた。須原は卒業後、再び鈴木商店に入店、西川の女婿となり西川の後継者となった。
鈴木の後継会社となる「日商」の設立に加わり第4代社長、日商岩井の社長を歴任した人こそ岳父文蔵の後継者・西川政一である。

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