西川文蔵に関する関係者の言葉シリーズ①「西川家の親族およびその他の関係者の言葉」

主家に対する至誠の念熱烈にして、謹厳、謙遜、報恩の諸点について自ら範を示す

■西川芳太郎(西川文蔵の実弟、鈴木商店大連支店長)
五 行状逸事(いつじ)の色々
(一)故人は(よう)より父母(その)他の長上(ちょうじょう)に対し一言も抵抗されたことなく、又(その)様な態度に出られたことがないのは有名で、唯々(いい)として之に応じ、不可とみれば其実施に手加減を加えた位である。(この)特別なる人格は近接者に一種言うべからざる快感を与え、他人が真似ても出来ぬ美徳として今も尚親族間の追懐(ついかい)の資料となって居る。

私は幼時(ようじ)は別とし、今日まで店の事以外には声色(こわいろ)(あらた)め小言を云われたことを覚えないし、又たとえ気に入らぬことがあってもそれを外貌(がいぼう)に現されたことを見たことがない。常に変わらぬ温容と()(がん)を以て接せられたので、年と共に此円満な性格が益々発露した様に考える。

其代り店の事では随分深刻に叱責もされ、顔色も変えて怒られたことがあった。故人は此様な性格の人であったから、一家内では夫婦相和し小言一つなく、一切の家政の切廻(きりまわ)しを夫人に委ねて干渉せず、(すこぶ)る家庭円満であった。

其他()(ぼく)に対しても同様、一年三百六十五日同じ態度で常に温顔(おんがん)を以て接せられたから、愈々(いよいよ)永別(えいべつ)の際などは(あたか)も慈母に別るる感があったとて、何れも(なげ)き悲しんだと云うことを聞いた。

(二)故人は父母に対して()(こう)で、如何にせば孝養のほどが思う様に出来るかと云うことに腐心されたのみならず、又血縁の吾々兄弟姉妹、乃至(ないし)夫人側の其等の人達に対しても(おもい)()りが深く、色々の面倒を見て(いと)わぬと云う風であったから、吾々の心に触れた感激の印象は深きものがある。

又故人は他人に対しても親切で同情深く、其境遇の不幸な者ほど一層世話もし、(なに)(くれ)と相談もされたのである。今日それがため社会的地位も向上して幸福な生涯を送って居る人が多い。(しか)し故人はそうした顔もされぬので、一層其徳を増した様である。

(三)故人は他人に対して嫌な感じを与うることとか、人の聞いて喜ばぬこと、話す必要のないことなどは絶対にせぬ人で、吾々はよく他から聞いて初めて知り、此様なことがあったのですかと尋ねる折もあったが、あればあったと簡単に答え、彼れ是れ説明がましいことはせぬ人であった。

又他人の批判とか他人の悪口は決して言葉にせぬ人で、時々吾々に注意さるる時其例に出さるることがあるが、其場合には必ず(また)其人の美点をも揚げると云う風に(すこぶ)る君子の面影があった。自己の温和なる威容(いよう)で包み全人格を以て矯正すると云う流儀であったから、よく叱られた後で却って気が晴々し、これでは人の親しむのも無理はない、何時接しても気の変らぬ慈愛に富んだ気高い人であると吾兄ながら染々(しみじみ)感ずることが多かった。

(四)故人は物事に忠実で一些事(さじ)(いえど)等閑(とうかん)に付せぬと云う風であった。必ず事は目鼻をつけて、跡整理をせぬと気が済まぬと云う質で、又其日の仕事は其日に片付ける主義であって、人にも之を強い、自分も極力之が励行に(つと)めるのが常であった。

(五)故人は公私の別を明かにすること非常なもので、私が鈴木商店勤務中も家庭では公用に関しては一切口にせられず、時に私に質問して注意さるることがあるも、吾々の質問に対しては差支なき範囲の(こたえ)はさるるが、直に話を他に転ぜらるるのが常であった。

(六)故人は東京高商在学当時、各地に青年会の設立あり。地方青年の品性陶冶(とうや)、人格の修養、思想の良化は以て一郷の汚俗(おぞく)悪習を改め、惰眠(だみん)を変じて進取敢為(かんい)の美風を涵養(かんよう)する所以(ゆえん)なるを察し、率先郷党(きょうとう)(はか)って青年会を樹立し、幻燈機械等を移入して随時随所に青年会の主義綱領を宣伝して、会の目的の貫徹に努力されたものである。故人はこう云う方面には特に力を尽されたのが常である。

(七)故人は公共事業に尽すことが好きで、公益的事業の話をすればよく耳を傾け、金銭の寄付や物品の寄贈は分相応にせられたものであった。郷里の教育、衛生、土木等の公共設備や神社仏閣に対する金品の寄贈は心よく出捐(しゅつえん)され、多くの場合それが動機となりて是等の事業が興ったのであるから、此点故人の功績は特筆に値するものがあったと考える。又其れだけ吾郷党(きょうとう)が一倍故人の徳に潤ったものとも云える。(抜粋)

以上、「脩竹余韻」(大正10年8月15日発行、編輯兼発行者:森衆郎)より


■西川政一[旧姓・須原政一](鈴木商店社員、西川文蔵の女婿、日商第四代社長、日商岩井初代社長、日本バレーボール協会会長)
(出生地の兵庫県氷上郡竹田村から)汽車で神戸へ出発した。大正三年三月のことである。当時、鈴木商店は栄町三丁目にあった。隣には第三十八銀行があって、前の通りには市電が走っていた。鈴木本家は四丁目にあって、ここに「お家さん」の鈴木よね刀自が寝泊まりされていたのである。

いよいよ私は鈴木商店に入社した。いや、そのころの感じでは「入社」などという言葉は全くあてはまらない。"ボンさん"に奉公したといった方がぴったりする。お店からいただいた筒袖(つつそで)の和服に三尺帯、それにぞうりといういで立である。

金子氏の女房役として本店支配人、西川文蔵が経営の合理化、近代化に苦心していたのだが、その西川に目をかけられた上、彼が私の岳父にとなるきかっけを以下に書いてみよう。

ある夜、積出部の主任の川口氏が「インボイスに支配人のサインが今夜中に必要だ。君行ってくれぬか」と私に頼まれた。時間はもう夜中の一時を回っていたが、私が自転車で行くと既に店から電話がかかっていたので西川家の表門は開かれ、小僧の私でも玄関から応接間に通された。そこで労をねぎらわれてサインをもらったのであるが、店では支配人の顔は知っていたものの、こうして親しく声をかけられるのは初めてのことだった。

それから数日後、私が扁桃腺をはらして高熱を出し、店の三階で一週間ばかり寝込んだ時、多忙な支配人が毎日二回も上ってきて見舞ってもらえたことがある。時には珍しい菓子まで届けていただき、非常に感激した。大変こまやかな配慮の行き届いた人であった。

ある日曜日の午後、― 当時は日曜日といえども支配人までが出社し、午後二時ごろまで執務するのが普通だった。もう店にはだれもいないと思って夜学の勉強をしていると、金子さんの部屋から不意に支配人が現れて、「エライ勉強やなア、どうや」と私に語りかけた。

恐縮しながらも「夜学から帰ると十時を過ぎるし、眠ってしまいます。さりとて朝早く起きるのもなかなか出来ないし、こうして休日を利用しとります」と事情を説明すると、「これからは実力が第一、しっかりやれよ。しかし身体をこわしたら何もならん、その点よく気をつけいや。そや、今日はええ天気やから、その辺まで私と一緒に散歩せんか」とさそわれた。

諏訪山あたりを散歩しながら、夕飯を食べて行くようにいわれ、そのまま西川家でご馳走になったのだが、西川家には神戸高商へ行っている本庄さんという書生さんがいた。その時西川は、店へ行くならオリビヤ(鈴木商店の独身寮の一つ)から通うよりもこの家から通う方が便利だ。本庄君にも勉強をみてもらえるし、ここから通えばよいではないかと勧めた。

当時西川家には実の子供が六人もあった。その上に書生一人、おまけに私だ。多分、家庭内をきり回している文蔵夫人にしてみれば、何というもの好きなことをする人かなと思われたであろう。こうして私は神戸市中山手七丁目の西川家に寄宿し、そこから店へ通うことになった。

― そしてある夜、私の部屋に入って来た西川が、「どうだ、本当に勉強する気があるなら、しばらく会社をやめて本格的に学校へ行ってみたらどうか?」と勧めてくれた。私はこれ以上面倒をかけることは許されまいと子供心にも思ったが、他方、店でいろいろ同情を寄せてくれる多くの学校出の先輩たちの活気ある仕事ぶりを思い、学校で深く貿易を研究し、その業務をこなせるだけの知識を是非早く身につけたいと願っていたのも否めない。

私は早速郷里の兄と、西山校長先生(竹田小学校の校長)に相談の手紙を書いた。二人ともすぐに賛成の返事をくれた。そこで私は鈴木商店をいったん退社し、西川邸から学校(育英商業学校 → 市立神港商業学校[補欠募集の受験者約50人中トップ合格])へ行くことになったが、それは大正五年八月のことである。

こうして西川家に寄宿しながら神港商業の三年間を過ごし、(大正九年の春)あこがれの神戸高商の菊水の帽子をかぶることになる。(神戸高商に)入学早々、私の学びの父というか、第二の父ともいうべき西川文蔵が突然病床に伏すという事態に直面し、その年の五月十五日、まことにあっけなくこの「父」を失ったのである。

(大正七年の)米騒動(鈴木商店焼打ち事件)以後、西川は鈴木の経営近代化にひとり苦心し、文字通りいろいろ心痛が重なり、胃をわずらって約一カ月ほど自宅で静養していた。しかし、夫人の涙ぐましい看護によって快方に向かい、そろそろ出社しようとしていたところであった。

十五日の朝、特別に悪い状態でもなかったので、私は通常通り登校したが、すぐ学校へ電話があって急いで帰宅してみると、家の中は騒々しくただならぬ雰囲気である。台所にいた人が私の顔を見るなり「だんな様が ・・・・」と絶句する。居間へ駆けるように行ってみると、既に白布が顔にかかっていて、枕頭(ちんとう)にきゃう(京子)夫人がぼう然と座っていた ・・・・ 。

その時、悲しみをこらえながら、きゃう夫人が言った言葉を私は今なお脳裏に焼きつけている。

「この人があなたを家に連れてこれらた時、世の中にはよくもこんな物好きな人がいるものか、と実はあきれた。自分の子供が六人もいるのに、その上どこの人かもしれないあなたを連れて来て、私は本当に主人の気持ちを計りかねていた。でも、主人に死なれた今、やっと主人の心がはっきり理解出来る。主人は自分の寿命を予知していて、後事(こうじ)を託するためにあなたをこの家に連れて来られたに違いない。本当に虫が知らせたのです ・・・・」

私は、かなしみをひたるよりも、故人の恩愛(おんあい)の大きさに粛然とすると同時に、私に課せられた責任の重大さを強く感ぜざるを得なかったのである。(抜粋)

以上、「私の履歴書」(日本経済新聞社編、昭和五十三年六月連載)より


■水島銕也(てつや)(神戸高等商業学校 [現・神戸大学] 初代校長)
謹厳、謙遜、報恩
君は(かつ)て東京高等商業学校に在籍せられし(ゆえ)余とは同窓なれども、在学の時代を異にせし為め互に相知れるは明治二十六年、余が神戸に()()せし以後の事なり。(しこう)して時折校務に関して交渉し、又は同窓会の席上にて面会せる位の事なりしを以て、君の平素の行状、逸事(いつじ)等に就ては多くを知る(あた)わざりしと雖も、君と交際中に余をして最も深く感ぜしめたるは左記の三点なり。

一 君は最も謹厳にして事大小を問わず決して(いやしく)もせざる風あり(したがい)(あま)快濶(かいかつ)に談論せず。又(みだ)りに()()すること無かりき。されど決して沈黙家には非ず。(その)言う所簡潔にして要を得、雑談(また)淡泊にして人をして(ごう)(いや)()を催さしめざりき。

二 君は(いたっ)て謙遜家なりき。君が鈴木商店に支配人として在職中、同店より神戸高商に資金を寄附せられたる事二三回ありし故、余は其都度謝意を表せんが為め君を訪問せしが、君は一度も自己の周旋尽力を誇るの口吻(こうふん)を漏されしこと無く、是れ全く御校卒業生諸君の平素の働きに対し主人及上役が同情したるに()るのみと言いて、其功を他人に譲るを常とせられしは余の最も敬服せる所にして、(かく)の如きは謙譲の美徳を備えたる人に(あら)されば(あた)わざる所なり。

三 君は主家に対して常に犠牲的精神を有し、極めて忠実なる店員として終始一貫せられたる様に察せらる。彼の欧州大戦中我が商業界が(しん)()未曾有の好況を呈するや、少壮の輩競うて独立営業を開始せり。

此時我校の卒業生にして鈴木商店に在勤せる者の中一二名(また)辞職して独立せり。君之に(いつ)て余に語って(いわ)く、新卒業生が商業上真に役立つ迄には三、五年の歳月を要す。其間会社は養成費として俸給手当等を支払い居る次第なり。故に三年や五年にて去られては会社は資金を投じたる結果を収むること能わざる訳にて不利益甚だしきが故に、今後鈴木商店に就職せんとする者は容易に独立自営せざるを条件と為したきものなりと。

是れ実に(もっと)もなる事にて、余は度々商店の主人より之を聞きたるも、今回の戦時好況時代に於ては会社商店の重要なる地位に在りたる人にして(てん)(しょく)又は独立せる者少からざりしを以て、会社商店の重役たり支配人たる人と雖も、此点に()きて他人を責むる資格を有せる人は実に寥々(りょうりょう)たる有様なりき。

此際君は頻りに青年の(てん)(しょく)を非難して(ごう)仮借(かしゃく)する所無かりしを見れば、君自身が独立する意思(ごう)(まつ)も無かりしは勿論、()かる(おこない)を以て大なる罪悪と考え居られしこと明かにして、以て君の主家に対する至誠の念の熱烈なりしを推知(すいち)することを得。

以上列記せる謹厳、謙遜、報恩の諸点は実に現今の青年に共通せる缼点(けつてん)なるが、君は此等の点に就て青年の為に自ら模範を示されたりと云うも決して()(げん)に非ざるなる。

以上、「脩竹余韻」(大正10年8月15日発行、編輯兼発行者:森衆郎)より

西川文蔵に関する関係者の言葉シリーズ②「鈴木商店の幹部の言葉」

  • 明治40年(支配人に就任する前年)の西川文蔵
  • 西川政一(旧姓・須原政一)
  • 水島銕也

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