西川文蔵に関する関係者の言葉シリーズ②「鈴木商店の幹部の言葉」

奇談も逸話もない清廉、高潔、謹厳にして温情、至誠の人

■金子直吉(鈴木商店大番頭)
偉人に逸話なし
森君から亡友西川君の逸話を書けと命ぜられたけれども、西川君に逸話のあろう筈が無い。若しあったらば、西川君は決して尊むべき人では無かったろう。

抑々(そもそも)逸話と云うものは、小賢(こざか)しい人が俗人を(あざむ)く為に行って見せる芝居の一幕である。即ち西川君はそんな芝居などをして人を欺く小才子(こさいし)で無く、最も尊敬すべき紳士であると同時に極めて誠実な事務家で、商売も可なり上手であった。

()いて西川君の行って居た事を形容すれば、孔孟の教にある様な君子が沢山の子弟を率いて六ヶ敷(むつかしき)商売を円満に有利に行って居た様なものである。逸話や奇談に富んで居る人は真に偉い人でない。実は平々凡々の代物(しろもの)である。

本当に偉い人は何等の奇談も逸話も無く、(その)全生涯が一団の逸話であって、其平生(へいぜい)(すこぶ)る真面目で献身的で、一生を通じて何処(どこ)が優れて居るともなく、(ただ)美質に富んで尊むべく慕うべき所が多く、(あたか)雨露(あめつゆ)が植物の生育を助ける如く、広大(こうだい)無辺(むへん)の恩恵を感ぜしむるものである。

即ち、西川君の偉かったのは全く之に(こう)(とう)するからである。西川君の有難い処、勿体無(もったいな)い処は全然(ここ)に在りと断言する。故に逸話や奇談が有ったら反って西川君死後の余栄(よえい)が薄らぐ訳である。

西川君が鈴木商店へ来たのは明治廿五六年であって、神戸取引所の戸田忠主と云う人が先代の主人(初代・鈴木岩治郎)に頼んで、先代の主人から小生に貴様の方で使ってはどうかと言われた。小生は只今人は余って居るから要らないと答えた処が、先代主人がまあ会うて見ろ、眉目(びもく)優秀(ゆうしゅう)くっきりとした良さそうな男であるぞと言われて、即ち小生が担当して居った樟脳店へ雇うこととなった。

余談ではあるが、先代主人は人を見る眼識が高かった。(さて)入店して見ると、体格は蒲柳(ほりゅう)で上品な御大家の息子然たる勤勉な誠実な事務家であって、小生が()り散らかした商売の跡始末を悪い顔もせず日々都合よく片付けて呉れた。

又その頃から明治四十二三年位迄、小生の手紙は大抵小生が口授(くじゅ)して西川君が書いたので、事実を知らぬ人は之を小生の筆跡と思うて小生の達筆を称揚(しょうよう)した人もあった。其頃の西川君は(ただ)正直に従順に事務を取って商売には趣味が無い様に見えて、後半あれだけの商売に練達しようとは思わなかった。

明治二十九年の頃西川君の叔父某が死去した処、西川家の全財産が(ことごと)く抵当に這入(はい)って居ることを発見した。其頃迄西川君の家は、西近州で有数の資産家の積りで居ったそうなが、(これ)()って一家一族皆驚倒(きょうとう)した。

西川君は之が為に一時鈴木を退去して帰郷することとなった。此の時西川君は書面で小生に善後策を問われたから、小生は全財産を売って借金を片付けろと答えた。西川君は其通り実行したらしい。

その後、小生が西川君に書面で田舎の草深い処で暮すも一生、神戸の様な(ばん)(こく)の人を相手とする処で暮すも一生、同じ事なら小生と共に神戸で悪い事をして暮そうではないかと言うて()った処が、西川君之に応じて再び神戸へ来て、あの如く死ぬ迄我商店の為に奮闘努力したのである。

支那の古い寺へ行くと必ず(すす)けた佛像が在る。其佛像には一向(いっこう)値打は無いが、其眉間(みけん)とか腕とかの要処々々に色々の宝石が嵌込(はめこ)んであって光輝(こうき)を放って居る。我鈴木商店に西川君が居たのは丁度此仏像の頭に嵌めてある宝石の様なものであったろう。

〇西川君をおもう  未亡友人 白鼠
世の中に似たもの一つ雨後うごの月

〇絶句に対し  同人
梧桐(あおぎり)の散りさうに無き葉色哉

〇写真に対し  同人
ころもへてせきする音の忍ばしき


■柳田富士松(金子直吉と並ぶ鈴木商店の二大柱石、砂糖事業のエキスパート)
ああ良支配人
自分と西川君とは旧い同僚であるが、君の入店後明治三十一年に家庭を持たれる迄は君の行事に付いて一切知る所がなかった。れは君は主として樟脳の仕事を担当せられ、自分は専ら砂糖の仕事を担当して居たので、顔を会わせてとくと話をする様な機会が全く無かったからである。

殊に自分は前後二回で一年位支那(しな)に行って居り、又下関に居ったこともあり、(その)後殆ど毎日大阪に行って大部分同店で仕事をした関係から、(ふる)い同僚であるにも拘らず君の事に(いつ)て語るべき何等の材料を持たない訳である。

併し君は店員が少数であった時代から店員中一頭地(いっとうち)()いて居たことは事実で、至極実直な金子氏の女房役として最適当な人として自分は考えて居たのである。当時君は山口氏の令嬢(現未亡人)と結婚したしとのことで店主へ相談せられ、自分は店主から相談を受けたが、君の如き真面目な人が選択せられた人なれば必ず良縁であるに違いないと言って一も二もなく同意したことである。

明治三十五年十月に店は合名会社組織になり、同四十一年二月支配人専任の場合に、金子氏から君を支配人にしてはと相談があったので、其れは最適任者であろうと言って自分等一同賛成したのであるが、支配人として君の如き温厚にして(たん)(ぱく)誠実にして恪勤(かっきん)練達にして公平な人を得たことは(まこと)に店の()(こう)であった。

(しか)る処、我が国は国力を()して戦った日清戦役や日露戦役に大捷(たいしょう)し、後には欧州大戦にも参加して()く連合国共同の敵を(ほふ)り、()くて国威の宣揚(せんよう)を見たのであるが、翻って我鈴木商店も爾来(じらい)店主の恩眷(おんけん)の下に金子氏を初め店員一同が協戮(きょうりく)一致して奮闘努力した結果、店運は次第に発展隆昌の域に進んだ。

世間には店が盛大になった為に、支配人其人(そのひと)(かなえ)の軽重を問わなければならぬことになって更迭を要した例は乏しくないのであるが、店では絶えて左様の心配が無かった。十数年間を通じて支配人であった君の技量は盤根錯節(ばんこんさくせつ)に遭遇する毎に愈々(いよいよ)益々(あらわ)れて、萬般(ばんぱん)の店務(しょう)()(よろ)しきに合い、(あっぱ)れ大鈴木商店支配人として恥しからぬ効績を挙げられたのは他に余り例の無いことであって、特筆に値するものと信ずる。

君が病気で静養中自分は四五回見舞ったが、最初は甚だ弱って見えたけれども、其後会う度毎に快方に赴かれたので大いに喜んで居た。君は無論自分等も、あー急に病状が変って易簀(えきさく)されようとは思いも寄らなかった事である。

易簀(えきさく)の数日前であったが、からだの工合(ぐあい)は宜しいから六月一日には出勤したいと思って居るとさえ話されたので、自分は其れは結構だが大病後押しての出勤で逆戻りなどしては大変である。仕事は森君(もう一人の支配人)等が代ってして居る訳であるから一寸(ちょっと)顔を出される位ならば格別、決して出勤を急いではならぬ。十分宅で養生せられたいと勧告したのであった。

然るに五月十五日の朝、森君が金子氏と自分とが居る事務室に来られての話に、今西川さんから電話がかかり、店の事につき相談したいから来て呉れとの事。そこで森君に行って(もら)い、金子氏は他の用事で外出された。処が又電話があり、意外にも西川君は危篤だとの事で大に驚かざるを得なかった。

取るもものも取りあえず急いで出かけた。嗚呼(ああ)危篤 ・・・・ 瀕死、自分は先刻電話の意味も判ったが何等言う所を知らなかった。頃刻(けいこく)の後、君は早や此世の人でなかったが、枕辺には夫人と子供達と西川文之助氏が居られた。自分と森君とは辛うじて臨終に会い、そぞろ肉親の兄弟に(わか)れた感じがして熱涙の下るを覚えなかったのである。

自分が永い年月の間に西川君と旅行を共にしたのは大里精糖所が設立された際、金子氏と三人で大里へ行った時だけである。其れも汽船で行って、翌日の晩に汽車で直ぐ神戸に帰った様な訳である。君は滅多に旅行しなかった。偶々(たまたま)しても(すこぶ)る忙しい短日の旅行に過ぎなかった。又君は書画其他高尚な趣味を持って居られたが、其為に勤務時間を()くようなことは決してなかった。

入店以来二十六年の久しい間、唯忠実に勤務して終始()らなかったことは店主を初め一般の深く感謝して居る所である。自分は今後君の行を学んで(びん)(べん)事に従う人が益々多からんことを祈るものであるが、此れは其人一生の利益であるのみならず、店の為にも国の為にも誠に結構な事と思う。其れでこそ繁盛するのである。


■西岡貞太郎(鈴木商店下関支店長)
故人を偲ぶ
凡そ人を感化するに於て人格の力より優るものはなし、人を指導するに於て躬行きゅうこうの力より優るものはなし。人を任用するい於て公平の力より優るものはなし。

故西川文蔵君は二十有六年間我鈴木商店に仕え、長く支配人の(じゅう)()に在りき。君天資(てんし)温厚、品性高潔にして名利を求めず、(その)欲する所は商店の隆昌に在りて(ごう)も私欲の念なし。是を以て(しゅう)(しん)帰服し、(その)高風を仰慕(ぎょうぼ)せり。

君の店務に鞅掌(おうしょう)せらるるや、如何に繁劇(はんげき)の際と雖も今日の仕事は必ず今日に始末して之を明日に残さず、書類器具の如きは一々所定の処に整頓し、何時にても応急措辨(そべん)するを得べし。是を以て範を部下に垂れ、店務為に(しん)(しゅく)せり。

君の人に対するや温情に富み、公平無私を以て唯一の信条として(ごう)も私心を挟まず、是を以て部下皆心服し、喜んで之が用を為せり。

余は(ねん)()(はるか)に君より長じたるも、我鈴木商店に奉公を始めたるは君より遅かりき。余が君と相知りしは明治三十年にして、爾来(じらい)親しく其人と為りと其行う所とを見て君に学ぶべきもの多々あるを感知せり。如上(じょじょう)の三点は(けだ)し君の特長の主なものと()うべし。余の我商店の一要部(ようぶ)(そな)わり十数年間幸に大過なく、以て今日に及べるもの(また)君の感化に頼るもの多きを信ず。

聞く、君の(そう)()の地は江州高嶋郡今津町なりと。君の(おん)(じゅん)玲瓏(れいろう)玉の如き資質は、()れ或は中江藤樹先生に私淑して(しか)るか。或は琵琶湖辺自然の風光に同化して然るか。今や温乎(おんこ)たる其風姿は見るべからざるも、高潔なる其品性は深く余の脳裏に浸潤して離れざるものあり。(ここ)に故人の行状、逸事(いつじ)等編纂の挙あるに際し、(いささ)か所感を述べて欽慕(きんぼ)微意(びい)を表す。


■谷治之助(鈴木商店四天王の一人、後・株式会社鈴木商店監査役、後・羽幌炭砿鉄道監査役)
人格と手腕
私の初めて西川氏を知るに至りしは、実に明治三十四年の頃でありました。当時の氏は眉目びもくせいしゅうで、一見貴公子の風丰ふうぼうを備えて居られました。爾来じらい春風秋雨殆ど二十年、常に氏の懇篤こんとくなる眷顧けんここうむり来りましたが、一朝病魔の為に長逝ちょうせいせられて再び氏の温容にまみ謦咳けいがいに接するに由なきにいたりましたのはいまなお夢の如くで、うたついかいえない次第であります。

氏は(まこと)景仰(けいこう)欽慕(きんぼ)すべき人格と手腕を兼有(けんゆう)して居られ、器資宏偉(こうい)、忠誠重厚、敏警(びんけい)卓識(たくしき)等の諸性行(せいこう)を具備せられました。(その)人格と手腕を以て複雑なる店務を拮据(きっきょ)鞅掌(おうしょう)せらるるや、()事体(じたい)通暁(つうぎょう)せらるるのみならず、終始一貫誠実を以て之に当たらるるので処理決裁流るるが如く、然も正鵠(せいこく)を失うことなく()機宜(きぎ)(かな)はれたことと()()せらるるので上信頼の極め深厚(しんこう)なりしこと、下衆望(しゅうぼう)帰嚮(ききょう)したことは偶然でないのであります。

氏の文を作るや(ごう)も苦心の跡なく、一気()(せい)縷々(るる)注ぐが如く萬語(ばんご)立所(たちどころ)に成る(おもむき)がありまして、(しか)も簡潔明確(その)要を(つく)して(あま)す所のなかったのは、又以て文藻(ぶんそう)の豊であったことが窺われます。氏の筆跡は(つと)に定評のありました所で一度筆を執れば毫端(ごうたん)飛ぶが如く、而も老蒼(ろうそう)遒勁(しゅうけい)他の模倣を(いれ)さざる如くであります。

氏は骨董も趣味を持たれて常に愛玩せられました。其鑑賞に於ても確かに一隻眼(いっせきがん)を有せられた様に思われます。(しか)し之が為に(あえ)(るい)を為すに至らざる所が所謂(いわゆる)骨董紳士と其軌を一にせざる所以(ゆえん)でありまして、氏に於て始めて骨董を解するものと称することが出来ましょう。畢竟(ひっきょう)胸中別に悠々たる(かん)日月(じつげつ)ありて、優に之を楽しまれたものに外ならぬことが偲ばれます。

嗟呼(ああ)氏が非凡の偉才(いさい)を抱きながら、年齢未だ知名(ちめい)に達せずして忽然(こつぜん)(はく)玉楼中(ぎょくろうちゅう)に入られしは、公にしては我鈴木商店に一将星を失い、私としては店員の師表(しひょう)(うしな)うた次第で、如何にも痛恨遺憾の(きわみ)()わねばなりませぬ。


■森衆郎(鈴木商店支配人、「脩竹余韻」の編輯兼発行者)
追懐餘噫
人生五十を定命とする。然るに君は四十七歳で永眠した。是れ果して天命を全うしたものであろうか。君の病中の主治医たりし松永氏は、謹直なる君の性質にかなわしき相当の人格を具えた看護婦を得ることが困難であった。故に令室京子氏が日夜病床に附き切りであった。

()(よう)浩嘆(こうたん)の言を漏らして居る。(まこと)に此の一節は君の人物を躍如たらしむる様に思うのである。(かく)の如く君の性格をも看破(かんぱ)する位の国手(こくしゅ)診脈(しんみゃく)加療したのだから治療上に於ては(ばん)遺漏はなかったと思う。

さすれば常に健康無病を誇りとして居った君が人生の定命にも達しないで永眠したことは、果して天寿を全うしたのであろうか。(けだ)し天命を以て長逝(ちょうせい)したものであろう。()く断定せねば解決が附かぬ。(その)性格すらも看破する国手が臨床投薬したのだから。

余は木堂翰(ぼくどうかん)墨談(ぼくだん)(犬養毅の著作)を愛読する。其余(そのよ)の役人連中の(あざ)は爵位の肩書を除いては通用せぬ。同書中に右の如き警句がある。余は是より君の支配人たりし地位を連想する。過言(かげん)であるかは知らぬが、諸会社商店の支配人は其肩書に依って通用する人物が過半数である。余も(まさ)しく其一員であるが、此点に於て君は肩書なきも先天的に支配人たる人物であった。

其清廉高潔にして()(よく)なる、其風采(ふうさい)の端麗にして容儀の上品なる、其頭脳の明晰にして機敏なる、其手腕の非凡にして計数に長じたる、其然諾(ぜんだく)を重んじて約束礼儀を欠かさざる、其品行方正にして謹直なる、謙遜にして威厳ある、其活発にして執拗ならざる、其坦懐(たんかい)宏量(こうりょう)、愛憎の念(ごう)もなくして一視同仁(いっしどうじん)の温情ある、其困難に遭遇するも責任を重んじ百折(ひゃくせつ)不撓(ふとう)の忍耐力を有する、其中正(ちゅうせい)公平にして公私の区別截然(せつぜん)たる、真に何一つ欠点はない。

唯紳士と云う一点より見るとも、世の自称紳士、実は簇張(紳士張)とは其(せん)(こと)にする。(まし)て高等の教育を受けて学和漢わかんようを兼ね、ひつさつ殊に佳麗かれいしかも丁稚奉公より始めて看貫かんかん、荷渡、記帳よりたたき上げた人物である。

(まこと)に先天的支配人たる資質を具有(ぐゆう)して居るではないか。所謂(いわゆる)紳士の典型ではあるまいか。(げん)()(やん)(れん)()(けん)を悼みて宰相中の真宰相、男子中の真男子と評して居るが、余は君を生みたる両尊は(もと)より尋常人でなかったであろう。(抜粋)

以上、「脩竹余韻」(大正10年8月15日発行、編輯兼発行者:森衆郎)より


■高畑誠一(鈴木商店ロンドン支店長、後・日商会長、後・太陽産業社長、後・太陽鉱工社長)
私が入社した明治四十二年三月、当時の鈴木商店は樟脳、薄荷、麦粉、外米、砂糖などを扱っている小さな貿易商だった。私が初めての"学校出"の社員ということでも大体の見当はつく。それまでは神戸、横浜などの外人商館あがりの番頭が店の働き手になっていた。

私は入社すると、すぐに外国通信係として配属された。上司の通信係主任は外人商館番頭出身の上田貢太郎さん(号を「観水」といった)という人だった。社内一の気難しい上司、上田観水主任の下で来る日も来る日も海外から入ってくる電信文の受信簿への記入だとか、社内連絡だとかの雑用ばかりをやらされた。

私は重大な失敗をしてしまった。取引きの秘密を守り電信料を節約するために当時すでに鈴木商店では電信暗号を使っていたが、あるとき、この暗号表を改定したことがあった。多分それはハンブルグ向けの取引だったと思うが、何月何日からだったか、従来の暗号が改定後は五倍の数量を表わすことになっていた。

電信のコピーが来て、初めて数量が五倍になっているのに気付きビックリ仰天した。樟脳を五百箱だけ売ったつもりだったのが、実際には二千五百箱の売約をしてしまったのである。当時樟脳は世界的に品不足になっており、相場がどんどん上がっているときである。

待っていて先になって売れば、それだけよけいに(もう)かるときだっただけに、大量の売約をしたことは儲けをみすみす少なくすることになるわけだ。しかし電文を打って契約してしまった以上、間違いでは済まされない。それだけの製品をそろえて出荷してもらったが、輸出部からはさんざん文句はいわれるし、使い走りの女の子にまでばかにされるはめとなり、さんざんだった。

そんなミスでしょげかえっている私をなぐさめ励ましてくれたのが、当時輸出部の主任だった故西川文蔵さん(現日商岩井相談役西川政一君の岳父)だった。「人間だれでも間違いはあるものだ。間違いをしてしまってから初めて、慎重さということが身につくものだ。君もこれを契機に成長してくれればそれでいい」― こう言って元気付けて下さった。

正直にいって、この西川さんの言葉がなければ私は会社を辞めていたかもしれない。西川さんは東京高商を中退して入社された。そんな経歴で鈴木商店に入っているだけに、昔かたぎの番頭さんの中に交じって人一倍苦労されたらしい。それだけに、"学校出"の私がつまらない失敗でくじけないように励まして下さったのだろう。その後も、私は何回か西川さんには力付けられた。(抜粋)

以上、「私の履歴書」(日本経済新聞社編、昭和四十七年十月連載)より


■永井幸太郎(鈴木商店取締役本店総支配人、後・日商第二代社長、後・貿易庁長官)
故人の性格

一 稜々りょうりょうたる一角
「まろくとも一角あれや人心あまりまろきはころびやすきぞ」と云う古歌を思い出す。故西川氏は玲瓏れいろう玉の如く、この人に接するや春風しゅんぷう駘蕩たいとう醇々じゅんじゅんとして長者の風があった。けれども確かに稜々りょうりょうたる一角があって、誠に冒し難い所があった。

その一角というのは謹厳にして曖昧な事が大嫌い、一々右か左かを判別せざれば()まず。曖昧模糊(あいまいもこ)の中に葬り去る如きは(かつ)て見受けたること無し。日頃温情溢るる(ばか)りなるが、(いやしく)も道ならぬ事があれば容赦せずと云う様な凛呼(りんこ)とした点である。

二 光風霽(こうふうせい)(げつ)  
故西川氏が何かの誤解で「是れは君うしたのかね」と詰らるることがある。その事はくでと説明すると、「ああそうか」後には胸中一物もなし。此時の同氏の態度が実に気持がよい。光風霽こうふうせいげつと云うのはかる事かと思う。

三 布袋(ほてい)の石像と棕梠(しゅろ)梧桐(あおぎり)と竹と八ッ手 
故西川邸に入って行くと、玄関の前に布袋ほていの石像がある。奥の間(臨終まで迄寝て居られた)へ通ると、庭は棕梠しゅろ梧桐あおぎりと竹と八ッ手とのみが植えてある。此の五つが故西川氏の性格を遺憾なく表現して居ると思う。私は梧桐か棕梠か竹か八ッ手かを見る毎に故西川氏の面影が髣髴ほうふつとする。

四 故人の富士登山と(やせ)我慢(がまん)  
故西川氏を先導に、今は同じく故人となった佐山君、目下ろんどんに在る高畑君、楠瀬正一君、山口君及び小生の六人連で富士登山に出掛けたことがある。八合目位から血気にはやる若者ども、我一番鎗いちばんやりの功名をと駆け登らんばかりにのぼる。

一同中の比較的老齢者たる故西川氏は玉なす汗を絞りつつ、喘ぎ喘ぎ後からついて来られた。平素の温乎(おんこ)たる故人には(その)君子の如き温厚味の為に「敗けじ魂」や「瘠我慢」と云う気魄(きはく)は隠れて居るけれども、一朝(いっちょう)事ある際は此気魄が片鱗を雲間より示すことがあった。

五 故人のパンクチュアリチーと鈴木商店の対外貿易
かつて金子氏より、一言にして之をおおえば故人は几帳面にして如何なる手紙に対しても些末さまつなる問答に対しても必ず極めて迅速に丁寧に一々返事を出す。約束したら決して期日を間違えないと云う気質のため対外信用を得るにあづかって力あることを認める、と言われたことがあった。右の様な故人の高風こうふうや美徳が故人の死後も尚我鈴木商店の商内あきないうち振を指導して行くことと思う。

以上、「脩竹余韻」(大正10年8月15日発行、編輯兼発行者:森衆郎)より

西川文蔵に関する関係者の言葉シリーズ③「鈴木商店の社員の言葉」

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