日本商業設立、高畑・永井の入社

鈴木商店を補完する合弁事業の発足と鈴木商店の近代化を目指す学卒派の入社

明治42(1909)年、鈴木商店は直系の子会社「株式会社日本商業会社」を創立する。居留地貿易時代から鈴木商店と取引関係のあったドイツ系商館ラスペ商会が解散することになり、同商会で番頭をしていたポップを起用し、従来鈴木商店があまり手を付けていなかった綿花、綿糸布、羊毛、紙、銅などを専門に取り扱うことを目的に設立し、多角化の足掛かりとした。

日本商業の設立時は、経営陣に社長を置かず、エミル・ポップを専務とし、鈴木・ポップの共同経営でスタートした。しかし、共同経営者のポップが考え方の相違から間もなく辞任し帰国してしまう。これにより同社は、鈴木商店100%の子会社として運営される。大正9(1920)年、空席だった社長に二代目鈴木岩治郎が就任した。

日本商業が設立された明治42(1909)年には初の神戸高商(高商)出身者の高畑誠一、永井幸太郎が入社している。高畑・永井コンビの登場であり、学卒派の誕生である。これより先、鈴木商店学卒第一号として入社し、金子直吉の信頼の厚い西川文蔵は、学卒派(高商派)と土佐派(高知商業出身者)の確執が起こるたびに、支配人として間に入って融和に努めた。

高畑は明治45(1912)年に鈴木商店ロンドン支店に赴任し、支店長として縦横に活躍した。一方、永井は本店にあって本店穀肥主任(部長職)を務めた後、取締役本店総支配人として独断専行する金子にブレーキをかける役を担っていた。

大正13(1924)年、永井は日本商業に常勤専務取締役として出向を命じられた。度々直言する永井を煙たく思った金子により遠ざけられたのではと、うがった見方もされた。

関連リンク

  • 高畑誠一(内子町小学校)
  • 高畑誠一
  • 永井幸太郎
  • 西川文蔵
  • 日本商業創立時のエミル・ポップ

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