辻 湊「自伝」をご紹介します。

2016.12.14.

!cid_00AEB4DE49D8E444B6533E2992A2BFCB@swn_shinko-elec.jpg金子直吉の信任が極めて厚く鈴木商店飛躍期に多くの企業を軌道に乗せ、発展の礎を築いた「辻 湊」については、長い間そのプロフィールがヴェールに包まれていました。この度、辻湊のご親族より「自伝」のご提供をいただき、当鈴木商店記念館にてご紹介させていただくことになりました。

辻湊自らの一生の総決算として執筆した自伝を昭和33(1958)年、辻湊死去後長男辻賢一が冊子にまとめたもの。辻湊と親交のあった神戸製鋼所相談役・田宮嘉右衛門が弔辞を寄せています。

明治9(1876)年、佐賀県小城町に生まれ幼くして伯父の辻泰城の養子となった辻湊は、京都帝国大学を卒業した後、東京の「石川島造船所」に就職し同社の設計科副科長に昇進しましたが、明治41(1908)年鈴木商店系列の神戸製鋼所に転職します。

神戸製鋼所の手掛ける製糖機械調査のため立ち寄った台湾では、鈴木商店が製糖工場「北港製糖」の建設を計画中だったことから帰国後、辻は取締役技師長として工場立地から操業まで全ての采配を振るい、鈴木商店初の海外大型製糖工場を完成させました。

その後鈴木商店造船部長として播磨造船所の経営及び鳥羽造船所の買収とその後の経営に従事。大正6(1917)年、船舶用や小型の電機品の必要性、将来性に着目し鳥羽の地で電機事業を着手し、今日のシンフォニアテクノロジーの基盤を築きました。

然し、第一次大戦後の反動不況の影響を受け大正10(1921)年鳥羽、播磨両造船所の経営が神戸製鋼所に移管されると神戸製鋼所取締役に就任。また、国内で深刻な鉄不足が叫ばれる中、日米船鉄交換交渉を解決した金子直吉は一躍時の人となりましたが、この船鉄交換の構想を金子に進言した辻こそ陰の功労者であったという真相が明かされています。

さらにクロード式窒素工業会社並びに第一窒素工業会社(共に現・下関三井化学)の設立にも携わり専務取締役に就いた他、北海道羽幌炭鉱鉄道の設立準備委員長に就任し、創設に貢献しました。晩年は国内初の石炭液化を計画し、昭和14(1939)年には㈱満州石炭液化研究所を設立し社長に就任しています。

金子直吉の信任が厚く、その尖兵として活躍する一方、造船、電機、化学、石炭燃料、製糖、食品、放送事業など多岐にわたる産業界で、常に新しい挑戦を続け、事業家として我が国産業の発展に大きく貢献した鈴木商店にとって稀有な人材であったと云えるでしょう。

鈴木商店関連資料」をご覧ください。

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