羽幌炭砿にまつわる話シリーズ⑫「羽幌炭砿創立20周年に寄せて(羽幌炭砿鉄道会長 高畑誠一)」をご紹介します。

2018.4.24.

takahataseiiti4.PNG羽幌炭砿にまつわる出来事やエピソードを紹介するシリーズの第12回です。

羽幌炭砿は昭和35(1960)年7月10日に創立20周年を迎え、同社の役員が社内報「石炭羽幌」に寄稿されました。今回は、当時同社の会長を務めていた高畑誠一(写真)の寄稿文をご紹介します。

この寄稿文の中では、羽幌炭砿の開発が金子直吉の意向により始まったこと、開発には(みなと)岡新六古賀六郎金子三次郎ら鈴木商店の関係者が関わったこと、金融難の時に苦心惨たんして鉄道を敷設し採掘を始めたこと、当時すでにエネルギー革命による石油需要の拡大が始まっており、同社としてもなお一層のコスト・ダウンが必要とされること、コスト・ダウンをはかる道は労使の共栄共存主義による合理化の推進による外はないことなどが綴られています。

また、文章の端々からエネルギー革命の進展により石炭産業がさらなる苦境に陥るおそれがある、という強い危機感が感じられますが、実際わが国では昭和30年代前半から石油需要の拡大と安価な海外炭の輸入増加を主因とする石炭不況が進行し、中小炭鉱を中心とする閉山が相次いでいました。かつて羽幌炭砿の経営陣が「せめてなりたや大和田までに」を合言葉とし、目標としていた留萌の大和田炭鉱までもが昭和34(1959)年12月に閉山を余儀なくされました。

当時、石炭企業は一斉に合理化に着手し人員整理に踏み切りましたが、羽幌炭砿を除く全国の多くの炭鉱はこれに激しく反発しました。羽幌炭砿が創立20周年を迎えたまさに同じ年、昭和35(1960)年には九州の三井三池炭鉱において113日ストが決行され、「総資本対総労働の戦い」と評される一大闘争(三井争議)にまで発展してしまいます。

寄稿文の全文は下記の関連記事をご覧下さい。

鈴木商店の歴史>金子直吉のお家再興に向けて>羽幌炭砿にまつわる話シリーズ⑫「羽幌炭砿創立20周年に寄せて(羽幌炭砿鉄道会長 高畑誠一)」

関連リンク

TOP