金子三次郎

鉄道敷設の認可申請や鉄道建設資材の調達などに尽力 

生年 明治26(1893) 年11月17日
没年 昭和47(1972)年1月25日

大阪市東区神崎町に父・淺野萬吉、母・キヌの四男として出生。大正9(1920)年3月3日、大阪長堀のカネ辰藤田商店(*)の番頭として働いていたところを、金子直吉とともに鈴木商店の二大柱石と仰がれた柳田富士松の肝煎りで直吉の実弟・金子楠馬の婿養子となった。妻は楠馬の長女・亀尾。

「柳田富士松傳」(白石友治、編輯)によれば、金子三次郎は事業経営の面でも立派な手腕家であったという。

(*) カネ辰藤田商店は、カネ辰鈴木商店と同じく辰巳屋(主人・松原恒七) から暖簾分けを受けた大阪の砂糖商で、主人は藤田助七。

妻の亀尾が33歳で早世し、昭和8(1933)年10月11日に再婚。後添えは後の羽幌炭砿第二代社長・町田叡光の実姉・常意。

昭和14(1939)年秋、後に羽幌炭砿の社長となる町田叡光は神戸製鋼所での実績が高く評価され、北海道における炭鉱創業への従事を強く求められた後に渡道の決意を固めるのであるが、それを町田に薦めた人物が金子直吉、高畑誠一、金子三次郎の3名であった。

金子三次郎は羽幌炭砿創業時には専務取締役であった。創業前には鉄道敷設の認可申請等開発の諸手続や鉄道建設資材の調達などに奔走し、実現はしなかったものの、当時、太陽産業の直営会社であった防石鉄道(本社・山口県防府市)の「三田尻―堀」間17km余の軌条を羽幌炭砿に移設すべく、時の鉄道省と交渉を重ねたがことなどで知られている。この時の交渉相手が、当時同省監督局の鉄道課長で、後に総理大臣となる佐藤栄作であった。

(*)防石(ぼうせき)鉄道は大正初期に山陽と山陰を結ぶ鉄道として計画されたが、第一次世界大戦開戦による物価高騰により資金調達と工事がはかどらず、三田尻(山口県防府市)―掘(佐波郡徳地町)間を開業したのみに終わり昭和39(1964)年、廃止となった。その間、太陽産業は戦時体制下の資材不足から防石鉄道の軌条を羽幌炭鉱鉄道に移設する計画をたて、大株主の広島瓦斯電軌(現在の広島ガス・広島電鉄)が所有する株式の8割を取得し、直営会社とした。しかし、結局羽幌炭鉱への移設は地元の反対運動もあって実現しなかった。

羽幌炭砿創立20周年に当たり当時の会長・髙畑誠一から寄せられた文章の中で、辻湊(炭砿の設立準備委員長) 、岡新六(初代社長)、古賀六郎(常務取締役、初代鉱業所長)らと並んで金子三次郎に対しても、創業当時の努力について謝意が表されている。

「金子直吉傳」(白石友治、編輯)によれば、金子三次郎は金子直吉が昭和14年(1939)年4月に創設したツンドラ製品(保温板、絶縁板、防音板、糖結剤、豆炭など)の製造販売を目的とした樺太ツンドラ工業(本社・樺太幌内川流域の佐知)にも専務取締役として名を連ねている。

このように金子三次郎は金子直吉の信頼も厚く、その手となり、足となって鈴木商店の系列会社の創設などに従事していた模様である。晩年は、鈴木商店の系列会社、東邦金属寝屋川工場の相談役として最後の務めを果たした。

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