古賀六郎

太陽曹達から築別・羽幌両地区の実地調査を任された炭鉱調査のプロフェッショナル 

昭和6(1931)年、太陽曹達(後の太陽産業)は築別、羽幌両地区の炭鉱開発の方針を固め、両地区の実地調査を開始した。調査を任されたのが古賀六郎で、最初の数年間は夏季のみ2、3名の助手とともに入山。昭和10(1935)年には築別地区においてヤマト式ユニバーサルB型試錐機を使用して数10カ所にわたりボーリング調査を実施し、地下およそ250㍍までの地層および炭層の状態を確認した。

その結果企業化の目途がつき、昭和14(1939)年、築別御料に太陽産業羽幌鉱業所が開設された。そして炭鉱名は「築別炭砿」と命名され、翌昭和15(1940)年2月から開削・採炭が開始された。

古賀は羽幌炭砿創業時は常務取締役で、初代鉱業所長と採鉱部長を兼務していた。炭鉱開発、鉄道建設、戦時中の人出・資材不足の中での増産など、打ち続く困難な状況に対し、常に陣頭指揮にあたり、鉱員職員と一体となって羽幌炭砿発展のために力を尽くした。

羽幌炭砿勤務以前には鈴木商店の直営会社、「沖見初炭鉱」の染採鉱部長を務め、昭和4(1929)年から翌年にかけては同じく鈴木商店の直営会社、「日沙商会」のサラワク調査隊(*)に炭鉱調査部門の責任者として2度にわたって参加していた。また、羽幌炭砿創立20周年に当たり当時の会長・髙畑誠一から寄せられた文章によれば、古賀は同じく鈴木商店の直営会社、「帝国炭業」にも勤務しており、まさに炭鉱調査のプロフェッショナルといえる人物である。

(*)当時のサラワクはボルネオ島北部(現在のマレーシアのサラワク州とブルネイ)に存在した白人王国である。

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