岡新六

羽幌炭砿に不滅の足跡を残した、余人をもって代えがたい初代社長

生年 明治12(1879) 年頃
没年 昭和33(1958)年9月2日

福井県にて出生。東京府立二中、仙台二高を経て明治37(1904)年、京都帝国大学採鉱冶金科卒業。大阪、札幌などの鉱山監督局勤務。大正2(1913)年に一旦退官し、村井鉱業鉱山部長。大正8(1919)年、再び官界に戻り、鉄道省技師を経て昭和4(1929)年、南満州鉄道へ、満鉄撫順炭砿研究所長。昭和15(1940)年、工学博士号を授与される。同年、羽幌炭砿社長就任。清廉潔白、見栄や体裁といったものは一切なく、コールマンらしく常に作業衣、首には手拭いという姿で通し、飄々とした風格の持ち主であったという。

石炭の物理的・化学的性質の追及に長年取り組み、撫順では石炭を鉋(かんな)と鑿(のみ)であたかも髪の毛のように薄く切り、寝食を忘れて研究に没頭した。この研究の成果により工学博士号を授与された。著書「石炭」は、学会や業界では権威をもって迎えられている。著書にはこの「石炭」のほかに「中等物理学講義(青葉万六との共著)」、「延長ト厚サトニ於ケル撫順炭質ノ変化ト其ノ成因ノ研究」などがある。石炭液化の研究にも力を注ぎ、燃料研究所(商工省が、大正9(1920)年に設立した施設)で実績を残した。因みに、著書「石炭」は現在でも国立国会図書館、北海道立図書館などで閲覧が可能である。

羽幌炭砿社長への就任は、炭砿設立準備委員長の辻湊からの推薦によるものである。辻は京都帝国大学理工学部で機械工学を修め、神戸製鋼所技術師長を経て羽幌炭砿設立準備委員長を努めていたが、折しも昭和14(1939)年8月、満州国と神戸製鋼所の出資により(株)満州石炭液化研究所が設立され、当時すでに石炭液化の権威であった辻が社長に就任することとなった。設立準備委員長が社長に就任することが一般的であるが、このような経緯があって辻は満州へ、羽幌炭砿の社長には岡が就任することとなった。

社長就任後は町田叡光らとともに、困難を極めた鉄道敷設、戦時中の人出・資材不足、自由売炭時代の到来に伴う販売競争激化、戦後の人出不足・労働意欲の低下に伴う出炭量の激減、その後頻発した労働争議、朝鮮特需の反動による販売不振などの幾多の苦境を次々に克服して行った。

終戦後には、満州の撫順炭鉱で採炭の第一線に立ち卓越した技術力を持っていた朝比奈敬三を迎え入れることによって、合理化と技術革新によりコストダウンと出炭量の増加をはかり、経営基盤を強化していった。昭和31(1956)年5月に町田叡光にバトンを渡すまでの16年間、初代社長として羽幌炭砿の発展のため、持てる力量を遺憾なく発揮した。

岡は官民で培った豊富な知見、工学博士ならではの石炭に関する豊富な学術知識、優れた経営能力をあわせ持つ、余人をもって代えがたい貴重な人物であり、羽幌炭砿に残した功績は余りにも大きい。

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