羽幌炭砿にまつわる話シリーズ⑫「羽幌炭砿創立20周年に寄せて(羽幌炭砿鉄道会長 高畑誠一)」

共存共栄主義みのる

(昭和35年)七月十日で羽幌炭砿開発二十周年を迎えた。誠にご同慶の至りである。想い起こせば昭和二年早春、鈴木商店が倒産した当時北海道の取引先から担保流れとなった羽幌の鉱区を債権銀行に担保として差入れておったものが、その根幹をなしたのである。もっともこの鉱区は当時、露頭によって石炭の存在は確認されていたものの、未だボーリングもしたことがなく炭量の点は不明であった。

その後鈴木の整理も曲りなりに大体片付いたので、さすがの金子(直吉)翁も何か一つまとまった事業を起して捲土重来(けんどちょうらい)せねば主家に対して相済まぬと感じられたのであろう。生来事業が何よりも好きな金子翁であるから種々画策された結果、羽幌炭砿を買いもどして、これで一旗挙げるのが何よりも再興の早道と考えられて太陽鉱工が債権銀行から羽幌鉱区を買いとり、付近の連続鉱区も順次、新規に入手したのである。羽幌炭砿鉄道株式会社が生まれてこれを継ぎ、なお付近の鉱区の拡張に努めたことは皆の知るところである。

まず開発の第一歩として鈴木に勤めていた故(みなと)氏に相談されたところ、辻さんは京大の同期であり友人であって当時満鉄に勤務していた岡新六博士を推挙したので早速岡氏を招聘(しょうへい)して技術方面の担当に、一方事務方面は、昔鈴木の帝炭に在勤し北九州出身で生来石炭に詳しい古賀六郎氏に担当させ、さらに金子三次郎氏もこれに参加。あの金融困難のときに苦心惨たんして鉄道を敷設、採掘を始めたのであるが、最初は予定通りに運ばず収支も償わないような状態であった。

そのうちに金子翁は病気に罹り昭和十九年二月、遂に今日の盛業を見ずして世を去られたのは遺憾であった。しかし、金子翁の企図された石炭事業開発は後継者により完成されたので、金子翁も地下で冥福されていると信ずるのがせめてもの慰めである。

石炭事業はわが財界においても三井、三菱、住友、古河等が何れも兼営して今日の盛大なる因を形成しているが、時代の推移により石炭事業は斜陽産業と化した。原因は主として石油との競合の結果である。これに対抗するためには是が非でもトン千二百円のコスト・ダウンが必要とか聞く。この合理化ができぬと石炭の将来は影が薄い。しかし、羽幌の場合は一人当りの産出額が四十トン近く、日本では最高の部類に属する。以前は労使の協調に欠けた時代もあったが、今日は双方理解ある共存共栄主義で全員一致協力の結果が現われ、この石炭界の困難を突破しつつあるのは重役の経営宜しきを得たのと、これを理解し協調する鉱員との和衷(わちゅう)協力の賜であることを感謝せねばならぬ。

今後要請されるトン一千円以上のコスト・ダウンは総ての面の合理化の推進によるの外ない。何人も痛い目はしたくないが、命あってのモノ種で、会社と運命を共にするためには先ず会社を中心に会社をよくして、以てこれに均霑(きんてん)(各人が平等に利益を得ること)するの主義方針で進まねばならぬ。共存共栄は現代企業経営の唯一の方策である。二十周年を迎うるに当り大金子翁を追慕し、これに関与した故辻、岡両氏と古賀、金子三次郎氏等の当時の努力に謝すると同時に、現重役陣の奮闘と全従業員の協調精神を(よみ)し、ますます会社の発展されんことを祈るものである。

日本の将来は工業国として立つ以外ない。石炭液化もあながち夢ではないから悲観の必要はない。各人の奮闘努力が自己の運命を開拓するのは今も昔も変らない。羽幌の諸君の健在を祈り祝辞とする。

(昭和35年7月10日付羽幌炭砿の社内報「石炭羽幌」より)

羽幌炭砿にまつわる話シリーズ⑬「羽幌炭砿創立20周年に寄せて(羽幌炭砿鉄道社長 町田叡光)」

  • 高畑誠一

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