播磨造船所の歴史② 

鈴木商店は相生での造船事業への進出を決意

大正3(1914)年7月、第一次世界大戦が勃発し船舶不足と船価高騰による海運業界未曾有の好況を予想した鈴木商店の大番頭・金子直吉は、世界的な船腹不足緩和のため造船事業の必要性を痛感し、当時台湾の北港製糖やらん殖産において技術者として活躍していた信任の厚いみなとを起用し、造船事業への進出を計画するよう命じた。辻は直ちに阪神地区を中心に適当な土地の選定に着手するとともに、既存造船所の買収計画を進めた。

同時に、鈴木商店鉄材部はロンドン支店の高畑誠一を通じ、イギリスのコンサルティングエンジニア・ワーレス氏に載貨重量5,000トン型および10,000トン型貨物船のロイド・プランによる設計ならびに材料表の作製を依頼した。これは、造船所建設後直ちに新船を建造するための事前手配であった。

当時の鈴木商店は、大戦勃発を千載一遇の好機と見た金子直吉がロンドン支店の高畑一誠一に「鉄と名の付くあらゆる商品」に対する一斉買いを指示すると、裁量の一切を任された高畑は鉄鋼、船舶、食料を始めとするあらゆる商品を買い進めることにより莫大な利益を上げ、さらに翌大正4(1915)年11月、金子がやはりロンドン支店の高畑誠一ら3名に宛てて鈴木商店の更なる大躍進を遂げていくにあたっての大号令とも言うべき気迫に満ちた、後に「天下三分の宣誓書」と称される書簡を発するなど、旭日昇天の勢いで急成長を続けていた。

大正4(1915)年9月、相生(おお)町長・唐端からはた清太郎せいたろうと有志は地元造船所の現状打破のため鈴木商店を訪れ、「播磨造船株式会社」の買収と工場の拡張を申し入れた。金子直吉、辻湊らは川崎造船所社長・松方幸次郎、三菱神戸造船所所長・杉谷安一らの意見を聴き調査を進めた結果、相生湾が地理的条件に恵まれていること、造船工場拡張のため海面を埋め立てるにも背後の山を切り崩せばよく、また切り崩したあとに地所を造成することができるという一石二鳥の好条件などを考慮した結果、同社を買収し、将来に向けて一大造船工場を目指すという方針を決定する。

大正5(1916)年4月25日、売買契約が成立し鈴木商店は播磨造船株式会社の全事業を継承し、ここに「株式会社播磨造船所」が発足した。当時の役員は専務取締役 辻湊(造船部長を兼務)、取締役 高橋爲久、西村和平、監査役 坪田十郎であった。当時は船渠(ドック)1基、船台2基、従業員は職員18名、工員252名の合計270名であった。大正5(1916)年6月には鈴木商店から受注した木造の曳船「神の浦丸」(54総㌧)が、7月には鋼船の第一船「吉備丸」(1,174総㌧)が、9月には同型の「御崎丸」(1,172総㌧)が竣工する。

さらに鈴木商店は大正5(1916)年12月、鳥羽造船所を買収すると、翌大正6(1917)年には浪華造船所(大阪)に続いて木造船専門の檜丸造船所(大阪)を買収し、造船事業を拡大していった。さらに、鈴木商店は大正5(1916)年10月に帝国汽船を、大正8(1919)年7月には金子直吉の提案により9社・8船主からなる国策会社・国際汽船(現・商船三井)を設立し、海運業にも進出していった。

前会社(播磨造船株式会社)は鈴木商店が買収するまで、6,000トン船渠一つの修繕主体の小規模造船所であったが、買収後直ちに金子直吉の意図に従って、大型船の建造を目標に膨大な資本と人材を投下して海面を埋め立て、造船工場、機械工場、発電所等を建設するという画期的な工場大拡張計画が立案された。

大正6(1917)年春、平田保三(後・播磨造船所支配人、帝国汽船取締役播磨造船工場支配人、神戸製鋼所取締役技師長兼播磨造船工場長)が三菱造船長崎造船所から入社し、拡張計画に参画し計画は再審議の上決定された。具体的には船渠の南にある甲崎を切り崩して海面を埋め立て、新造船用の船台を建設し、続いて既設工場の前面にある海面を埋め立てて工場群を建設しようという計画で、海面埋立工事は高知県出身の濱口勇吉(作曲家・浜口庫之助の父)が設立した濱口組が請け負った。

拡張計画は好況による物価高騰と労働力不足のため予想外の困難に直面し、とりわけ急を要する海面埋立工事は山腹の岩盤が想定を超えて堅く鑿岩さくがんは困難を極め、なかなか進捗しなかった。このため、同社は鈴木商店土木部の越智望らを招いて指導を受けた。

第1期海面埋立工事は大正9(1920)年6月に18,365坪(当初計画:約20,000坪)を完成したが、当初の予定費用の3倍以上を要し、工事期間も約3年延びるという難工事であった。第2期海面埋立工事は大正8(1919)年12月に4,495坪(当初計画:約4,500坪)が完成。また第1期埋立工事の進捗に伴い大正6(1917)年後半から大正9(1920)年の半ばにかけて能力6,000超トンの船台が順次4基、第2期埋立工事の進捗に伴い大正8(1919)年12月に約1,000フィートの係船岸壁が完成する。

さらに、自家発電計画を推進し大正8(1919)年7月、東京電灯千住発電所の1,500KWの設備を譲り受けて藤戸地区に移設し、藤戸発電所として送電を開始した。あわせて、全国の機械製作所へ注文が殺到する中、幹部社員は国内外から各種工作機械の調達に並々ならぬ苦心を重ね、巨大造船所を造り上げていった。なお、エンジン、コンプレッサー等の主機械および主汽缶(ボイラー)の製作は神戸製鋼所が担当した。

明治40(1907)年に弱冠16歳で建設請負業を始めた大本組の創業者、大本百松は広島県因島にて備後船渠の技師長であった三上英果みかみひでみ(後・播磨造船所技師長、帝国汽船播磨造船工場支配人、神戸製鋼所取締役播磨造船工場副長、(第二次)播磨造船所常務取締役)の知遇を得る。大本組は大正7(1918)年、前年に播磨造船所に入社していた三上の招請により相生の地に本店を置くと、ほどなく播磨造船所の指定請負人となり、造船所内外の諸工事に従事し事業を拡大していった。

大正7(1918)年8月12日に米騒動のあおりを受けて神戸の鈴木商店本店が焼き打ちされ、店主・鈴木よねが避難していた須磨の屋敷に民衆が押しかけた際、大本百松は仲間を率いて相生から須磨に駆けつけ、屋敷を守るとともに民衆を説得したという逸話が残されている。

播磨造船所の組織は独立した株式会社であったが、実質的には鈴木商店の一部門であり、相生という地の利とともにその潤沢な資本投下によってわが国有数の造船所としての礎が築かれていった。

播磨造船所の歴史③

  • 播磨造船所(大正5年頃)
  • 「第一船台」を建設中の濱口組の面々(大正6年頃)
  • 大本百松邸跡に建つ顕彰碑

TOP