神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の第32回「主力の台湾銀が最後通告」をご紹介します。

2017.2.6.

神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の本編「第4部 荒波、そして(32) 主力の台湾銀が最後通告 コール引き揚げ 命運尽きる」が、2月5日(日)の神戸新聞に掲載されました。

今回の記事は、昭和2(1927)年3月27日の朝、金子直吉の定宿・東京ステーションホテル20号室に金子直吉のほか高畑誠一、永井幸太郎らが万策尽きた面持ちで椅子に体を預けている場面から始まります。続いて、鈴木商店は前日の3月26日に台湾銀行から融資打ち切りの最後通告を受けたこと、そして4月2日付で支店やグループ会社に営業停止の通達を出したこと、3月末には三井銀行が台湾銀行からコールマネーを引き揚げ台湾銀行も休業に追い込まれたこと、金融恐慌の波はさらに広がり鈴木系の六十五銀行も休業を発表したことなどが描かれています。

未決済の震災手形(*1)を「日銀震災手形割引損失補償令」による政府の負担1億円のほかに、新たに発行する公債1億700万円により救済しようという震災手形二法案(「震災手形善後処理法案」と「震災手形損失補償公債法案」) は昭和2(1927)年1月26日の通常議会に提出されましたが、その後も与党・憲政会と野党・政友会の政争絡みの議会の紛糾が続き、大混乱のうちに翌々月の3月4日になってようやく衆議院を通過し貴族院に送られました。

(*1) 震災手形とは、関東大震災の震災地を支払地(東京,神奈川,千葉,埼玉,静岡の各府県)とする手形、震災地で事業を営む者が振りだした手形、震災地で事業を営む者を支払人とする手形をいいました。

444px-Naoharu_kataoka 片岡直温.jpg貴族院では衆議院予算総会(予算委員会)での大蔵大臣・片岡(なお)(はる)(左の写真)の歴史的失言(*2)に端を発した相次ぐ金融機関の休業(金融恐慌の第一波)を目の当たりにして金融界の現状が尋常ではないことを痛感し同年3月23日、ようやく震災手形二法案を台湾銀行が不良債権を整理するという趣旨の付帯決議を付すという条件付で通過させました。

(*2)事務次官から渡されたメモを見た片岡は、東京の渡辺銀行が営業を続けていたにも関わらずまったく前ぶれもなく、「今日、正午ごろ渡辺銀行がとうとう破綻しました。誠に遺憾の事であります」と発言したもの。


この付帯決議により台湾銀行調査委員会が設けられ台湾銀行の基本方針が決定されることになり、さらにはいざとなれば政府が同行を救済するという言質を貴族院側に与える結果となり、ひいては同行をして鈴木商店との取引絶縁を決意させる結果になったともいえるでしょう。

貴衆両院において台湾銀行と鈴木商店の関係および経営内容が徹底的に叩かれ、この間鈴木商店の単名手形、関係会社との書相手形はその多くが割引不能となり、結局このことが台湾銀行にしわ寄せされ同行のさらなる資金繰りの逼迫を招きました。これを察知した三井銀行をはじめとする市中銀行は台湾銀行に放出していたコールマネーを次々に回収し、台湾銀行はたちまち極度の資金難に直面します。

※台湾銀行は昭和元(1926)年末時点で融資残高5億4,485万円に対して預金は9,280万円しかなく、資金不足分の大半は日銀からの借り入れとコールマネーにより対応していました。

そして、震災手形二法案が貴族院を通過した翌日の3月24日、片岡大蔵大臣は「台湾銀行が昨日(3月23日)の役員総会で鈴木商店との取引断絶を決議した」との報告を受けます。

当時、台湾銀行には一刻の猶予もありませんでした。同行の昭和2(1927)年3月期末の資金は市中銀行のコールマネー引き揚げで枯渇しており日銀に金融を頼らざるを得ませんでしたが、このときすでに日銀は同行に対する担保限度をオーバーしていたため、これ以上は政府の損失補償がなければ貸出をしない方針を固持していました。

一方で鈴木商店の手形尻はすべて同行にかかって来ることになり、3月末までに鈴木商店との関係を絶たない限り、台湾銀行も休業しないわけにはいかない状況に追い込まれていたのです。

toukyouasahis020402.PNG金子直吉や鈴木商店経理部長の大塚清次らは連日資金繰り工作のため奔走していましたが昭和2(1927)年3月26日、台湾銀行頭取・森広蔵(こうぞう)は神戸の高畑誠一を上京させ、また神戸においては二代目・鈴木岩治郎と金子直吉に、大阪においては永井幸太郎に「当行としてもこの上貴社のために援助を為し能わざるにつき、二十八日以後は資金の援助停止の外なきに至れり。誠にお気の毒であるが、右様の事情につき充分御諒解を願い今後共整理に尽力せられんことを切望す」(「台湾銀行史」より)と通告しました。(上は昭和2年4月2日付東京朝日新聞の記事「台銀の融資拒絶から鈴木商店全く行詰る」です)

toukyousuteisyonnhiterusuiitoruumu.PNG翌3月27日、東京ステーションホテルの2階、スイートルーム20号室(*3)には金子直吉、藤田謙一長崎英造、高畑誠一、永井幸太郎、高橋半助、大塚清次らが集まり台湾銀行の通告に対する最後の協議を行いましたが、もはや万策尽きた感があり、ここに至っては金子直吉も辞任しないわけには行かなくなりました。そして、鈴木商店は新たに高畑、永井コンビの下で再出発を試みようとするも時すでに遅く、二人の力をもってしても鈴木の復興は不可能な状況に陥っていました。


(*3)鈴木商店の業容が拡大するに伴い金子直吉は頻繁に上京するようになったため二間続きのスイートルーム20号室を定宿とし、ここで作戦会議を開き自らも飛び回るのが常でした。なお、金子が東京ステーションホテルを借り切っていた期間は、同ホテル開業直後の大正4(1915)年から金融恐慌で鈴木商店が破綻する昭和2(1927)年までの12年間に及んだと推定されています。(上の写真は大正6(1917)年当時の東京ステーションホテルスイートルームです)

このときの台湾銀行の鈴木商店に対する貸出金はおよそ3億7,900万円で、同行の総貸出4億5,600万円の約83%を占め、これ以外の鈴木商店の市中銀行からの借入金およそ1億円を加えると鈴木商店は5億円近くのを借り入れていたことになります。

suzukisyoutenntoukyousiten.PNG昭和2(1927)年3月26日に台湾銀行から鈴木商店に融資打ち切りの最後通告がなされた後、鈴木商店は最後の金策に奔走しますが4月2日(土曜日)に至って遂に万策つき、同日株式市場は鈴木悲観で投げ売り状態となり半恐慌に陥ります。

鈴木商店では休日明けの4月4日の月曜日には支払停止、あるいは不渡処分とされるもやむなしとの結論に達し、4月2日付で金子直吉の名により各支店出張所、各関係分身会社に対し、悲痛ともいえる通告を発送しました。(鈴木商店営業停止:4月2日)

鈴木商店が営業を停止した2日前、すなわち昭和2(1927)年3月31日に株式鈴木(株式会社鈴木商店)は神戸本店で最後の総会を開き、最後の決算を発表します。それによると、当期利益は942,000円、繰越金は5,482,201円を計上しており、帳簿上は黒字決算でした。

しかし、持株会社である鈴木合名(鈴木合名会社)の巨額の借入金による膨大な支払利息による損失と合算すると当然に大幅な赤字であったであろうことは容易に想像できるでしょう。(上の写真は当時の鈴木商店東京支店[三菱仲28号館]です)

こうして鈴木商店は破綻し、この事実が報道されると金融界の混乱はその(きわ)みに達し、わが国は昭和の金融恐慌の核心に突入していきました。(下の写真は預金者が銀行に殺到し、預金の引出しを求める様子です)

鈴木商店系列の六十五銀行は鈴木商店支払停止の報が伝わるや預金者の取付けが殺到し、4月8日に休業を余儀なくされ、これにより預金取付けが関西地方に波及しました。

toritukesawzgi2.PNG片岡大蔵大臣は市中銀行に台湾銀行からのコールマネー引き揚げの猶予を要請し、政府の補償を内示します。4月14日、台湾銀行は策に窮して日銀および大蔵省に特別資金援助を要請し、片岡も日銀に対し同行に2億円を緊急融資するよう要請します。日銀は台湾銀行の救済に同意し、政府は無担保の特別融資(政府補償2億円)を盛り込んだ緊急案を枢密院に上奏したところ4月17日、同勅令案は政府・日銀の期待に反し枢密院本会議において多数をもって否決されてしまいます。

toukyouasahi020419.PNGこの枢密院の勅令案否決により4月18日、台湾銀行は台湾内の支店を除いて休業を余儀なくされます。(上は昭和2年4月19日付東京朝日新聞の記事「台湾銀行遂に休業す 台湾島内の本支店を除いて 本日から向こふ三週間」です)

同日、近江銀行が休業。4月21日には当時宮内庁金庫を預かる五大銀行に匹敵する第十五銀行(頭取は松方幸次郎の兄・松方巌)が休業。ここに至り37の銀行が休業に追い込まれ、東京では安田、第百、川崎その他全銀行が取付けにあい、この取付けは瞬く間に全国各地に波及し、全国の銀行店舗には預金引き出しのために群衆が殺到し昭和金融恐慌はその頂点に達しました。

tqakahasikorekiyo.PNGこの金融恐慌の措置を巡り若槻礼次郎・憲政会内閣は総辞職に追い込まれ、4月20日には政友会の田中義一(ぎいち)が組閣を発表し、金融恐慌を収束させるべく大蔵大臣に元総理大臣の高橋(これ)(きよ)(左の写真)が任命されます。

このとき高橋はすでに政界の長老的存在でしたが、日本経済の危機を救うため老骨に鞭打って登場します。そして4月22日、高橋はさっそく辣腕(らつわん)をふるって、世界の金融史上でも平時においては異例での措置であった3週間の支払猶予緊急勅令(モラトリアム)を公布します。

この間、日銀は紙幣を大増刷して各銀行に融通し、銀行は預金の取付けに殺到する預金者を鎮めるため、札束を店頭に積み上げたといいます。日銀では紙幣の印刷が間に合わず、表だけを印刷した裏白の日銀200円兌換券も準備されました。

この伝家の宝刀ともいうべき電光石火のモラトリアムは強力な火消し作用を発揮し、4月25日以降さしもの全国に広がっていた預金取付け騒ぎは収束に向かい、モラトリアム解除後に世間はようやく平静にもどりました。

しかし、この間休業に追い込まれた銀行は30数行に上り、その中には台湾銀行、近江銀行、六十五銀行などの有力銀が含まれており、当時の金融界の混乱の激しさを窺うことができるでしょう。

昭和金融恐慌時に休業に追い込まれた台湾銀行は、政府の支援措置により再建されます。5月8日、臨時国会では「日銀特別融通補償法案」と「台湾金融法案」が可決されます。

「日銀特別融通補償法案」は日銀が支払準備のために特別融資した分について政府が5億円を限度に損失補償するというもの。「台湾金融法案」は日銀が台湾銀行に対し、政府補償で2億円を融資するというもので、翌5月9日の両法施行にあわせて台湾銀行の各支店は営業を再開します。

その後、台湾銀行は第二次世界大戦中、中国南部、東南アジアなどの日本占領地で業容を拡大しましたが敗戦に伴い昭和20(1945)年、連合国最高司令部(GHQ)により閉鎖機関に指定され、清算・解散します。

台湾銀行の台湾島内の各施設は接収され昭和21(1946)年、中華民国統治下で新生・台湾銀行が設立されました。現在同行は国営による台湾最大の商業銀行になっています。また日本国内では昭和32(1957)年4月、残余資産により日本貿易信用株式会社(現・株式会社日貿信)が設立されました。

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