片岡直温

歴史的な失言により昭和金融恐慌を引き起こす

生年 安政6(1859)年10月13日
没年 昭和9(1934)年5月21日  享年74歳

明治、大正、昭和の実業家、政治家。
土佐(高知県)出身、片岡直輝の弟。

小学校教員、滋賀県警察部長を経て内務省入省。
明治22(1889)年、日本生命創設に係わり副社長に就任。
明治36(1903)から大正8(1919)年まで17年にわたって社長。
大正4(1915)年都ホテル社長。その後共同銀行、関西鉄道などでも活躍。
その間、明治25(1892)年、衆議院議員選出、当選8回。
第二次加藤高明内閣で商工大臣、第一次若槻内閣で大蔵大臣。

昭和2(1927)年、衆議院予算委員会での“東京渡辺銀行がついに破綻しました”という歴史的な失言が、取り付け騒ぎに発展し、昭和金融恐慌の引き金となったことは有名。

財務状況が悪化し、震災手形関係二法の成立により資金繰りの余裕を期待していた鈴木商店は、この失言恐慌によって実質とどめを刺されてしまった。

片岡は、その先祖・片岡下総守光綱が400年ほど前(天正13(1585)年)、長宗我部元親の命を受け一族200余人を引き連れ、金子の先祖・金子備後守元宅の立てこもる伊予金子城に土佐より援軍として出兵し毛利軍と戦い、共に討ち死にした勇将の末裔である。

後年、片岡の失言により鈴木の命運が絶たれ、片岡自身もこの歴史的な不手際により内閣の命運を決し、政界の第一線から退く結果となったことは運命の悪戯か。

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