山下亀三郎

“泥亀”と呼ばれ、船成金として成功した大正・昭和期の代表的な政商

生年 慶応3(1867)年
没年 昭和19(1944)年

伊予国宇和郡(現・宇和島市)の庄屋の七人兄弟の末子として生まれた。明治30(1897)年、個人商店「横浜石炭商会」を創業。明治36(1903)年、借金して英国船を手に入れ「喜佐方丸」と命名し、海運業に乗り出して海軍徴用船として提供したことから基礎を築く。日露戦争後の不況を乗り切ると、事業を順調に伸ばし、山下汽船合名会社を発足させた。大正3(1914)年第一次世界大戦が勃発すると、海運業の空前の好景気を捕らえ、船成金の代表格に発展する。山下は、日露戦争当時より、軍人、政治家に巧みに接近し、海軍徴用船を足懸かりに業容を拡大し、大正・昭和期の代表的政商と称された。

金子直吉とは、松方幸次郎と同様、ほぼ同時代を生き、金子、松方、山下の三人は、ビジネス面でも互いに協力しあい、海運業に大きな功績を残した。すなわち、第一大戦中の米国鉄材輸出禁止措置に対し、共に米鉄輸出解禁期成同盟会を結成して解禁運動をしたほか、戦後の海運不況に遭遇し、国策会社 「国際汽船」を共同設立し運航した。昭和金融恐慌の嵐には、山下汽船も見舞われたが、鈴木商店、川崎造船が相次いで破綻する中、新興成金の山下がほとんど無傷で乗り切ったのは、いかなる秘策を用いたのか興味深いところである。                           
「泥亀」とあだ名され、自らも無学を装っていた山下が生き抜いたのは、独特の人生観、すなわち「外の智恵を取り込み、内なる智恵を磨け」という信念で、政財界の要人に巧みに食い込んだことである。相手の懐に飛び込むためには、阿呆の振りもし、見下されるのも気にしなかったと言われる。このような芸当は、金子も松下も到底真似できない。

なお、山下汽船は戦後、新日本汽船と合併して「山下新日本汽船」となり、平成元(1989)年、ジャパンラインと合併し「ナビックスライン」に、さらに平成11(1999)年、大阪商船三井船舶と合併して「(株)商船三井」としての歩みを始めた。

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