船価暴落、Kライン設立

国際汽船とKラインの設立

大正7(1918)年、欧州では苛烈な戦争が続いていたが、鈴木商店ロンドン支店長高畑誠一は「まもなく戦争が終結して船価は下落する」と予測し、造船・海運の経営について本店に報告するとともに、ロンドン滞在中の松方幸次郎に情報を伝えた。

鈴木商店は、同年いち早く播磨造船所・鳥羽造船所・浪華造船所を帝国汽船に合併するなどの事業再編に着手した。

大正7(1918)年11月、第一次世界大戦が終結すると船価は暴落し、翌年1月には半値を割り込んでなお下落を続けた。造船各社はストックボート(見込み建造貨物船)の運用先として海運会社の設立を模索、大正8(1919)年7月、川崎造船所・鈴木商店など9社から船舶の提供を受けて国際汽船が設立され、金子直吉が会長に就任した。国際汽船設立にあたり鈴木商店が提供した船舶は、帝国汽船が播磨造船所で建造した八重丸・テキサス丸など5隻の貨物船である。また、国際汽船は設立時に政府の出資を仰ぎ、国策会社として始動した。

国際汽船は、船舶保有量で日本郵船・大阪商船に次ぐ第三位の海運企業であったが、戦後不況のために経営は苦しかった。大正10(1921)年、川崎造船所・川崎汽船・国際汽船の社長を兼任していた松方幸次郎は、ロンドンで3社が持つ船隊を共同運航する構想を表明し、3社のイニシャルから「Kライン」と名付けた。Kラインは鈴木商店を総代理店とし、欧州・アメリカ・アジアを結ぶ三国間航路(外国と外国を結ぶ航路)が主力で日本航路は修繕を兼ねたものであった。Kラインのファンネル(煙突部分)マークは、赤地に白文字のK」というわかりやすいデザインが採用された。

Kラインは大西洋航路を中心に収益をあげたが、川崎汽船や国際汽船の経営を好転させることは難しかった。造船業界は、海軍軍拡を目指し海軍当局との連携強化を進める民間団体”海軍協会会長”を務める内田嘉吉(台湾総督府民政長官、総督を歴任)に期待したが、大正11(1922)年、ワシントン海軍軍縮条約が調印されて主力艦の建造が停止されたので、軍需に転換を図りつつあった造船業界は苦境に陥った。鈴木商店、川崎造船所も戦後不況が深刻化するなか拡大した事業の整理・縮小を求められるようになっていた。

大正10(1921)年、鈴木商店は帝国汽船・造船部を神戸製鋼所に合併させ、播磨造船所・鳥羽造船所の両造船所は、神戸製鋼所・造船部として移管された。  

関連リンク

  • ドックのテキサス丸・ファンネルマークはKライン「K」(大正13年頃)
  • 帝国汽船・播磨造船所時代(八重丸の試運転(大正8年))
  • 帝国汽船播磨造船所統合を祝う記念写真(大正8年4月3日)
  • 神戸製鋼所・造船部となった鳥羽電機製作工場(旧・鳥羽造船所)(大正15年頃)

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