内田嘉吉と鈴木商店

台湾総督府民政長官および総督を歴任した逓信官僚。

内田嘉吉は、大正4(1915)年10月台湾総督府民政長官の任期を終え逓信省に戻ると、大正 6(1917)年逓信次官に就任する。大正7(1918)年、貴族院議員を経て大正12(1923)年、台湾総督として再び台湾に赴任するまでの6年余り、逓信官僚として鈴木商店との繋がりが見られた。

◇ロイド船級協会日本委員会                                                     明治以降、我が国は蒸気船、軍艦の建造をイギリスに頼っていたが、ロイド船級で作られて来た。日本の船主への船舶の納入が増加するとロイドは、船級の登録業務のため日本に検査員を派遣するようになった。大正期に入り、世界有数の海運国となった日本では、船主、造船業者、保険業者等より日本の船級組織の必要性が叫ばれると、元逓信次官の内田嘉吉はロイド本部代表等と協議してロイド船級協会日本委員会の設立に動き出した。

大正10(1921)年、内田嘉吉を中心に、金子直吉(鈴木商店)、岸本兼太郎(岸本汽船)、平田保三郎(神戸製鋼)を始め海運、造船、保険関係者32名の委員を選任した後、同年4月27日「ロイド船級協会日本支部」が創設され、内田嘉吉が委員長に就任した。同日本支部の活動は、第二次世界大戦勃発により休止に追い込まれ解体、戦後復活した。現在のロイド・レジスター・ジャパンは、リスクマネジメント業務を行うロイドレジスター・グループの一員として活動。なお現在、「日本海事協会(NK)」が日本唯一の国際船級協会として機能している。

◇日米合同汽船会社                                                         第一世界大戦勃発後、我が国の海運業界では社外船合同運動が再燃。好況に沸く海運業界をリードする三大船成金(内田信也(内田汽船)、山下亀三郎(山下汽船)、勝田銀次郎(勝田汽船))のほか松方幸次郎(川崎汽船)、金子直吉(鈴木商店)、浅野総一郎(東洋汽船)、久原房之助(日本汽船)の7船主が発起人となり合同汽船計画が持ち上がる。

逓信次官・内田嘉吉は、米国の社外船主・ヴァンダービルト社に働きかけ、日米合同汽船会社構想に発展した。新会社は、資本金2億円とし、日本側1億円、米国側1億円(全額をヴァンダービルトが引き受ける)をそれぞれ出資する。5,000トン級以上の新造船36隻を建造し、世界航路を開拓するという大構想であった。大正8(1919)年3月、日本側12社による第1回協議が行われ、さらに内田嘉吉、浅野総一郎両者により米国側の出資方法、米国側汽船会社との合同経営方法等についての具体的な協議まで進んだ。しかし米国が関与することに反対強く、日本のみで検討することに方針変更された。

第一次世界大戦の先行き不透明な世界情勢下、米国は日本への鋼材輸出を禁止、大正7(1918)年日米船鉄交換協約が成立し日本は、危機を脱した。社外船主による合同汽船会社構想は、一転して余剰の大量建造船の運用が大きな問題となり、再度舵が切り直され、大正8(1919)年国策会社「国際汽船」の設立に繋がった。

 

  • ロイドレジスター(ロイド船級協会)
  • 日米合同汽船会社計画を伝える新聞
  • 海運業、鉄道事業で財を成したヴァンダービルト創業者コーネリアス・ヴァンダービルト

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