船鉄交換条約

金子直吉の民間外交~米国の鉄と日本の船の交換

20世紀に入っても日本の製鉄部門は立ち遅れており、造船用の鋼材はイギリスやドイツから輸入していた。第一次世界大戦が始まるとドイツからの供給が止まり、大正5(1916)年にはイギリスも鋼材輸出を禁止するに至った。日本の造船各社はアメリカからの鋼材輸入に切り替えたが、大正6(1917)年、アメリカは参戦とともに鋼材輸出を禁止した。

当時、アメリカに発注していた鋼材46万トンのうち、鈴木商店の扱い量は11.6万トンで最も多かった。また、鈴木商店を通して鋼材を確保していた川崎造船所も造船計画が宙に浮いてしまった。

日本政府は、アメリカから鋼材を受け取る代わりに船舶を引き渡すという船鉄交換を申し入れたが、交渉は進展しなかった。大正6(1917)年米国大使ローランド・モリスが日本に赴任、財界の浅野総一郎がモリスと折衝したが不調に終わった。次いで外務省、逓信省が大使と交渉を重ねたが不成功に終わった。大正7年(1918)3月、金子直吉は内務大臣後藤新平の紹介状を携え、アメリカ大使館にモリスを訪ねた。

金子直吉は、川崎造船所社長松方幸次郎がロンドンから送ってきた電報をモリスに見せて交渉を進める。その電報には松方の強硬な意見が書かれており、それを見たモリスは本国政府との協議を確約した。この電報こそ、金子と松方が練り上げた交渉の道具立てであった。

船鉄交換の契約が成立すると、神戸の常盤花壇でモリス大使の歓迎会が開催された。その席上で、大使は「金子直吉氏が幾多の困難を排してついにこの契約をまとめられたことに対して、予は称賛してやまないものである」と述べた。

播磨造船所で建造された船では、「EASTERN SHORE(第8與禰丸)」など6隻が米国に輸出された。なかでも、大正9(1920)年4月3日に行われた「EASTERN SOLDIER」の進水式はアメリカ船舶局代表など数百名の来賓を迎えた華やかな式典となった。船鉄交換で日本からアメリカに輸出された船舶は45隻に達し、船舶輸出と鋼材確保の両面で日本の造船界に巨額の利益をもたらした。これらの船舶は本格的に稼働し始める前に第一次世界大戦が終わってしまうが、日本からの輸出船は世界第二位に躍進するアメリカ海運の一翼を担うことになった。

関連リンク

  • EASTERN SHOREの進水式 大正7(1918)年
  • EASTERN SOLDIER設計図(JMUアムテック所蔵)
  • 船鉄交換記念マクレゴー氏招待会
  • 米大使より寄贈された船鉄交換記念時計(木箱) 
  • 船鉄交換記念時計(木箱)

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