鳥羽造船所電機工場(現・シンフォニアテクノロジー)の歴史③

電気係から電気部を経て電機製作所へと陣容を拡大し、製品の多角化をはかる

鳥羽造船所「電機係」の技術陣は意気軒昂で抱負は非常に壮大なものがあったが、設備も不十分な新設小工場のことであり、その苦悩は尋常なものではなかった。幸いにも、当時同じ鈴木商店系列の播磨造船所では大型船の建造を目標に膨大な資本と人材を投下して海面を埋め立て、工場の大拡張工事をすすめていたことから大正7(1918)年2月、同造船所より5馬力から50馬力までの誘導電動機(モータ)約30台を受注し、納入することができた。

そして、鳥羽造船所「電機係」は「鳥羽電気部」に改称され、ようやく一般用交流電動機(モータ)の標準型も完成の域に達し、鳥羽造船所で建造する船舶向けだけでなく、鈴木商店系列の造船所や工場の電動機や電気設備は一切、鳥羽電気部より納入されることとなった。さらに、電機品の外販まで手がけるようになった。

当時、鳥羽とその近郊の電灯は造船所から供給されていたが周辺地区の電圧低下が甚だしく、料金も国内では最も高かった。そこで、鳥羽電機部では交流発電機と変圧器を製作して所内に設置し、交流による送電を開始して地元住民から大いに感謝された。

この頃、鳥羽造船所には後に日本の推理小説界の草分けとなる江戸川乱歩(本名:平井太郎)が在籍していた。乱歩は大正6(1917)年11月11日に入社し、電気部庶務係の書記となり大正8(1919)年1月まで在籍するが、その間は主に当時の技師長・桝本卯平の特命で造船所の機関誌「日和」の編集をしていた。いわば、社内報の創刊編集長を務めていたわけである。

さて、小田嶋修三(おだじましゅうぞう)は大正6(1917)年10月に鳥羽造船所に入社するや電機係主任として活躍する一方で、造船所内には大いに人格錬成(れんせい)を要する者が少なくなかったことから教育の大切さを痛感し、職工養成所の開設に情熱を注いだ。

しかし、第一次世界大戦による好景気に浮かれていた造船工場において小田嶋の主張に耳を貸す者はいなかった。そこで、小田嶋はせめて電気部だけでもと種々の困難を排し大正7(1918)年11月18日、中堅職工教育をスタートさせた。

小田嶋の熱意により講師が動員され、年長の見習工に対しひたすら電気知識の習得を追及させるとともに人格形成にも意を注ぎ、職場での道義と団結の重要性の理解に努力が払われた。その結果、電気部内でのわずか1年の教育により、その成果が極めて顕著に現れたことから、ようやく教育の必要性が認識され全所挙げて教育の諸施策が実行されることとなった。

翌大正8(1919)年9月には高等小学校卒業者の応募を求め、造船、造機、電機の各科に合計40余人を採用し同年11月3日、ついに「鳥羽造船所職工養成所」の開設に至った。当初の養成所は独身寮の宿舎「(さい)()寮」の一部を充当し、全寮制の下で教養、専門学科の授業のほか、日常の生活訓練を行った。そして、これが後の「神鋼電機鳥羽青年学校」「神鋼電機職業訓練所」、そして現在の「シンフォニアテクノロジー能力開発センター」へと受け継がれていくことになる。

この間、大戦終了後の反動不況を予想した鈴木商店は、経営が苦しくなっていた直営部門や関係会社について事業再編をはかることとし大正7(1918)年5月、造船と海運の緊密な連携をはかるべく鳥羽造船所は播磨造船所、浪華造船所(大正6年に鈴木商店が買収)とともに、鈴木商店が扱う貨物の輸送を担っていた帝国汽船(大正5年設立)に合併された。

この結果、帝国汽船は船舶部と造船部の2部制となり、両造船所は「帝国汽船播磨造船工場」、「帝国汽船鳥羽造船工場」となった。当時の帝国汽船の役員は、社長 (二代目)鈴木岩治郎、取締役 柳田富士松西川文蔵、井田亦吉、芳川筍之助、(つじ)(みなと)、平田保三、監査役 日野誠義であった。

第一次世界大戦中、異常な好況の波に乗って急膨張した海運、造船業などの諸産業は、大正7(1918)年11月に終戦を迎えると同時に手酷い打撃を受けた。しかし、それとは裏腹に一般経済界は翌大正8(1919)年には欧州の戦後復興などで需要が伸び、これに投機市場の思惑も絡んで、むしろ戦時中を上回るほどの熱狂的な活況に沸き立った。

辻湊は、この活況に乗じて陣容強化がなされた鳥羽電気部の製品多角化をはかるべく、蓄電池の製作を計画する。辻は神戸電機製作所(現・日立化成)の技師を招き大正7(1918)年10月、鳥羽造船工場近郊(鳥羽町奥谷)に蓄電池工場を建設し製作を開始した。

蓄電池工場は外国の文献などを唯一の参考に苦心して研究を重ね、初歩的な技術しか持ち合わせていなかった2、3の蓄電池専門メーカーを尻目に次々に新製品を生産していった。中でも集魚灯用の蓄電池は他に類を見ない優秀品として認められ、好評を博した。さらに無線電信用蓄電池、ラジオ用蓄電池などを製作する一方で大正11(1922)年10月、神戸製鋼所の系列下に東京無線電機が設立されると、無線用電源装置の電機品を蓄電池工場で製作することとなった。

鳥羽電気部では、当初は鈴木商店系列内の電機品の製作を中心としていたが、大正8(1919)年頃からは一般品がかなりのウエイトを占めるようになった。このため組織体系を整えることになり、名称を鳥羽電気部から「鳥羽電機製作所」に改めた。これを機に、鳥羽電機製作所はなお一層一般品の製作に力を入れるようになったが、幸いにも親会社の鈴木商店が全国に強力な販売網を持っていたので大いに助けられた。

この頃には前記東京無線電機の斡旋で陸軍にも無線用電源装置をはじめ、盛んに電機品が採用されるようになっていた。さらに、陸軍向け機上用風車式直流発電機の開発が始まり、航空電機の分野に参入すると各種電装品の製作へも手を拡げ、この分野において逸早く独自の地位を築き上げていった。

鳥羽造船所電機工場(現・シンフォニアテクノロジー)の歴史④

  • 鳥羽造船所職工養成所入所式(大正11年)

    最前列右から5人目が小田嶋修三

  • 蓄電池研究室
  • 陸軍向け機上用風車式直流発電機

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