播磨造船所の歴史⑦

神戸製鋼所から独立し、(第二次)株式会社播磨造船所として新発足

関東大震災の発生に伴う関西造船業界の一時的な受注増加も大正14(1925)年頃から下火となり、播磨造船工場は再び閑散状態に陥る。そんな最中の昭和2(1927)年4月2日、鈴木商店は金融恐慌に巻込まれる中で主力銀行・台湾銀行から融資打切りの最後通告を受け、万策尽きて経営破綻を余儀なくされた。

鈴木商店の破綻は神戸製鋼所にも大きな衝撃を与え、工場閉鎖なども憂慮されて人心の不安は去らなかった。このような情勢下にあって、緊縮整理を続けて来た神戸製鋼所は昭和2(1927)年5月、「鳥羽造船工場」について造船部門と起重機製作部門を「播磨造船工場」に統合し、電気部門である鳥羽電機製作工場(後・神鋼電機、現・シンフォニアテクノロジー)のみを残すという事業整理を実施した。

結局、神戸製鋼所は鈴木商店の経営破綻により約600万円の負債(当時の同社の資本金は2,000万円)を背負うことになり、資産整理のやむなきに至ったのである。同社は昭和3(1928)年10月、半額減資後直ちに倍額増資を行い翌昭和4(1929)年11月、播磨造船工場の分離・独立を断行する。

神戸製鋼所は播磨造船工場が事業の性質を異にし、かつ規模が大きく同社の一部門として経営を続けるのは不適当であるとの理由から同工場の分離を決定したのであるが、その背景には当時合理化を進めていた同社にとって不況に喘いでいた造船部門を切り離さざるを得ない実情があった。

この時、神戸製鋼所の幹部から播磨造船所と鳥羽造船所を整理する案が出され議論が繰り返されたが、当時神戸製鋼所の常務取締役であった田宮嘉右衛門は「単に会社が立ちゆかないからつぶすということは承服できない。地元のことを十分考え、むしろつぶすということよりも、いかにして生かしていくかを考えなければならない」とこの整理案を撤回させるとともに、その善後策について金子直吉の意見を徴し、背水の陣を敷いて播磨造船所の独立に踏み切った。(「田宮嘉右衛門伝」より)

昭和4(1929)年11月27日、神戸製鋼所本社においての創立総会が開催され、次のとおり役員が選任され、神戸製鋼所から一切の業務を承継して(第二次)「株式会社播磨造船所」が新発足した。

社長 松尾忠二郎、常務取締役 三上英果(みかみひでみ横尾(しげみ)、取締役 浦田鐵六、神保敏男、江村仲兒、監査役 長安晋次郎、森本準一

当時の従業員は職員187名、工員1,220名、社外工700名の合計2,107名で、独立に際し士気は大いに上がり、全従業員は新たな決意と覚悟をもって立ち上がった。播磨造船所にとって神戸製鋼所時代の9年間は大戦後の反動不況の荒波をまともに受けた極めて厳しい苦難の時期であった。

昭和5(1930)年1月に政府が金輸出解禁を断行したことから、世界恐慌と相まってわが国経済は未曾有の不況に見舞われ、結局海運・造船業界の不況は昭和8(1933)年ごろまで続いた。          

その後、播磨造船所は大戦後の不況を乗り越え、昭和10年代には戦時体制への突入に伴い新造船の注文が殺到する一方で、鋼材不足、労働力不足の状態が続いた。昭和12(1937)年7月、神戸製鋼所社長の田宮嘉右衛門が兼務にて播磨造船所の社長に就任すると、田宮は機構の整備と人材の登用をはかり人心の刷新と能率の向上をはかった。

昭和15(1940)年3月、播磨造船所は海軍管理工場の指定を受け、海軍大臣および神戸海軍監理長の指揮監督下に入る。昭和16(1941)年12月8日、太平洋戦争に突入すると播磨造船所は国家の要請に応じ、設備と増産体制の充実をはかり、軍需産業の第一線で活躍した。

戦局の悪化で船腹喪失量は予想以上に増大し、尋常の手段ではその補充ができなくなった海軍艦政本部は昭和18(1943)年1月、「年産百隻」の簡易造船所を建設して「改E型船」を量産することを決定し、当時建造実績の上がっていた石川島重工業、播磨造船所、三菱重工業、川南工業の4社に新造船工場の建設を指令した。

第2次戦時標準船として「改E型貨物船」(後に油槽船に変更される)年間100隻の急速建造可能の造船工場新設の特命を受けた播磨造船所は、工場建設地として相生市松の浦の市有埋立地を選定した。なお、工事全般は前記三上英果(みかみひでみ)の知遇を得て大正7(1918)年に相生の地に本店を置き、播磨造船所の指定請負人となっていた大本百松率いる大本組に依頼した。

この工事は88,186㎡の敷地を造成、87棟(延べ40,260㎡)の工場を建設、あわせて東船台、西船台を建造するもので、大本組は公有水面を埋め立て、船の建造を進めつつ昼夜兼行で工場の建設を進めるという驚くべき突貫に次ぐ突貫で工事に当たった。

この大本組の多大な努力により、2か月後の昭和18(1943)年3月12日には第一船の進水を実現し昭和19(1944)年3月、この難工事は完成した。この工事は常務取締役造船部長の六岡周三が主導し、造船部内に第2造船工作課が新設され、月岡常登が課長に就任して「松の浦工場」の業務に専念した。

昭和20(1945)年2月に建設中止命令を受けるまでに松の浦工場で建設された船舶は、改E型貨物船15隻・12,989総トン、改E型油槽船32隻・26,699総トン、油槽船2ET型105隻・87,622総トン、3ET型11隻・9,180総トン。合計163隻・136,490総トンを完成させた。最盛時には月産14隻にもおよび、他の造船各社を凌駕する結果となった。播磨造船所の年間目標は100隻であったが、資材の配給さえ円滑に続いていれば年間170隻の建造も可能であったといわれている。

工員は国家動員計画により、新規応徴士、現員応徴士、指名応徴士、朝鮮応徴士、俘虜(ふりょ)、女子挺身隊、学徒動員、華工、受刑者等さまざまな形で増員がはかられ、昭和19(1944)年の播磨造船所の工員は2万名を超えた。松の浦工場では本社工場の経験工に加え、高松刑務所を主体とする受刑者により編成された「造船報国隊」約3,000名、学徒約300名、その他を含め合計約4,300名が従事した。昭和18(1943)年8月、社長の田宮嘉右衛門が会長に、専務の横尾(しげみ)が社長に就任した。

昭和19(1944)年1月、播磨造船所は海軍大臣から第一次軍需会社の指定を受け、横尾龍社長が生産責任者に選任された。

播磨造船所は軍の要請により昭和17(1942)年から昭和20(1945)年にかけて、南方インドネシアに進出しジャワ島、セレベス島、ボルネオ島に7工場を開設し、新造艦船工事、木造船工事、沈船の引揚げ・修繕、油槽工事などに従事した。

インドネシアには播磨造船所本社から132名が派遣され、南方事業は現地住民の協力を得て各事業ともかなりの成績を収めることができたが、戦局の悪化に伴い派遣途中での船の撃沈、工場の空襲などにより多大な犠牲者を出した。とりわけ昭和19(1944)年5月17日のスラバヤ空襲の際には、スラバヤ分工場において播磨からの派遣従業員2名、現地従業員150名余が犠牲になり、負傷者も850名余を数えた。

昭和18(1943)年6月には満州国法人として「播磨工廠」を設立し、社長に横尾龍、取締役に六岡周三ほかが就任。造船、兵器製造、汽機製造、汽缶製造に従事したが経営は苦しく、ほどなく終戦を迎えたが従業員の日本への帰還は困難を極め、数名が犠牲になった。

昭和20(1945)年8月、太平洋戦争が終結すると、戦後の大混乱期を乗り越えた造船業界は昭和30(1955)年ごろからの「神武景気」に支えられ活気を取り戻し、造船ブームが到来する。播磨造船所は昭和20(1945)年11月5日、会長の田宮嘉右衛門が辞任し、高畑誠一が新会長に就任した。

播磨造船所の歴史⑧

  • 播磨造船所全景(昭和4年頃)  
  • 松の浦工場全景
  • 改E型貨物船「三笠山丸」

TOP