日本工具製作(現・日工)の歴史③
監査役の辻泰城が初代社長に就任し役員・社員一丸となって奮闘するも、苦境が続く
日本工具製作の創立当初は、吉本亀三郎、土屋新兵衛の両相談役が専務を補佐・指導に当たる予定であった。ところが、土屋は鈴木商店系列の南朝鮮鉄道の専務として転出し、吉本は病気でしばらくの間相談にも乗ることが出来ず、病気回復後も鈴木商店の本務に追われて同社の経営に携わることはままならなかった。
この事態を受け、専務の矢野松三郎自身の希望もあって専任の社長を置く話が提起され、監査役で最年長者でもあった辻泰城が社長に推薦された。辻は当初はこれに応じようとしなかったが、吉本と矢野が強く要請した結果大正9(1920)年12月14日、辻は取締役に就任し翌大正10(1921)年4月10日、ようやく初代社長に就任した。この時、辻は70歳になっていた。
辻は長崎師範学校を卒業し、小学校長、裁判官などをつとめた後、鈴木商店に入社。大正5(1916)年12月、九州・佐賀~久留米両市間の最短交通機関を設置する目的で、鈴木商店の参画を得て地元有力者が発起人となり肥筑軌道が設立されたが、社長には鈴木商店から辻泰城が就任し、土屋新兵衛も取締役に就任している。
大正7(1918)年、佐賀在住の有力者により佐賀郡巨勢村(現・佐賀市)に日本電機鉄工(電気機械、高圧タービンポンプの製造、社長:藤山雷太)が設立され、辻泰城は土屋新兵衛とともに取締役に就任している。
大正7(1918)年6月17日、鈴木商店は帝国人造絹糸(現・帝人)を設立し、社長に鈴木岩蔵、専務取締役には佐藤法潤と松島誠、取締役には久村清太と秦逸三が就任し、監査役には辻泰城が西川文蔵、松田茂太郎とともに就任している。
なお、鈴木商店の大番頭・金子直吉の尖兵として活躍し、造船、電機、化学、石炭燃料、製糖、食品、放送事業など数多くの事業において鈴木商店の発展のみならず、わが国産業の発展に多大な貢献を果たした辻湊は泰城の甥に当たり、湊は泰城の養子になっている。
他の役員たちの辻泰城に対する期待は大きな活躍を望むものではなく、長老として矢野専務の若さを補うという程のものであった。
しかし、武士気質の厳格な性格であった辻は、社長に就任するとそのような姑息なことには満足することなく、住友などの鉱山関係会社へ同社の製品を売り込むため四国、九州方面へ頻繁に出張して販路拡大に努め、また縁故をたどって各方面に進出をはかるなど力の限りを尽くして奮闘し、三菱の関係会社と特約を結ぶなど大きな功績をあげた。
大正10(1921)年1月25日、同社は大阪市西区立売堀の合名会社阪根商店内に大阪出張所を開設し、同年11月22日には本社を神戸市(栄町通二丁目49番地)から工場の所在地である明石市王子に移した。ちなみに、明石市は大正8(1919)年11月1日に兵庫県下で4番目の市として市制をしいたが、これは同社の創立(大正8年8月13日)とほぼ時を同じくしている。
大正12(1923)年9月1日、関東大震災が発生した。震災地では被災地復興のため工具類を必要としたにも拘らず関東の同業者はほとんど壊滅状態であった。このため復興作業に必要なスコップ、バール、鉄ハンマーなどの工具類は関西から供給することになり、同社への注文は急増した。
輸送困難な中で、同社は鈴木商店の提供船や応急品の名目で貨車半額急送便を利用して被災地へ工具類の積み出しを行った。専務の矢野も震災直後の9月14日に陸路では困難なため海路で東京に向かい、16日に東京・芝浦に上陸すると被災者を慰問するとともに工具配給の陣頭指揮に当たった。
こうした同社の積極的な活動は当然同社の業績にも貢献したが、被災地では感謝をもって受け入れられた。関東の同業者が壊滅状態となったことにより、同社への注文は関東一円、東北地方からも照会があり注文が増加してきたため、この機を捉えて積極的に販路を拡張すべく東京出張所を設置した。
しかし、需要の増加が見られたのは震災が発生した年くらいで、翌大正13(1924)年になると政府による国際収支改善・円為替低落防止を目的とした緊縮財政により震災の復興計画が繰り延べになったことに加えて一般の産業も不振を極め、土木工事が停滞したため注文が減少したばかりか、思惑的な投売物が出て工具類の相場が崩れ、同業者間の競争が激しくなり惨憺たる状態に陥った。
当時は同社苦難の時代であり、業績は赤字続きで大正12(1923)年下期に5分弱の配当を実施したのを最後に6年間無配を続けることになる。同社は辻社長、矢野専務を陣頭に社員一丸となって経費削減、業務の効率向上に努め、宣伝方法の改善、堅実な販路の拡大などに寝食を忘れて奮闘したが、不況の荒波は同社一社の力では如何ともし難く、まさに木の葉のごとく翻弄された。大正12(1923)年12月、相談役の吉本亀三郎が取締役に就任した。
一方、大正中期には貿易年商において三井物産を凌駕するまでに成長した鈴木商店であったが、第一次世界大戦の終結に伴う反動恐慌ともいうべき不況により受けた打撃は、その成長が急であっただけに甚大で、さらに関東大震災による打撃も加わり、鈴木商店の業績は悪化の一途をたどった。
そして、関東大震災の発生に伴い決済不能となった震災手形を救済することを目的とした「震災手形二法案」(「震災手形善後処理法案」と「震災手形損失補償公債法案」)の法案審議の最中に発生したいわゆる「昭和金融恐慌」に翻弄されつつ昭和2(1927)年4月2日、主力銀行・台湾銀行から融資打切りの最後通告を受けた鈴木商店は経営破綻を余儀なくされた。
昭和金融恐慌による金融機関の信用動揺・途絶により産業界、とりわけ中小企業は少なからず打撃を受け、また同社は鈴木商店につながる会社として色眼鏡で見られることもあったが、金融界の波乱の影響が同社に直接及ぶことはなく、この難局を無事に乗り切ることができた。
一方で、昭和2(1927)年7月15日に合意していたスコップ、ショベルの最低値段協定が有力同業者の違反行為によりわずか3カ月にして破られると、以前にも増して販売競争は激しくなり、販売価格は日を追って低落し、同社苦心の末の製造原価引き下げも利益を生み出すには至らなかった。