日本工具製作(現・日工)の歴史④

吉本亀三郎が第二代社長に就任し、景気の回復とともに業況が好転

昭和4(1929)年、日本工具製作は製品を納入していた南満州鉄道から値段の食い違いにより契約を破棄され、締め出される形で撤退することになった。しかし、同社はこれに奮起し、満州・中国のあらゆる需要部門に呼びかけて着々と地盤を築いていった。

これが功を奏して、結果的には南満州鉄道を上回る販路を開拓することができた。終戦に伴い南満州鉄道は消滅するが、この時の同社の活動が満州全体に「トンボ印」の声価を上げることにつながるとともに、後年同社が満州工場(満州機工株式会社)を設立する礎石ともなった。

同業者間の激しい販売競争が続く最中の昭和4(1929)年の春、社長の(つじ)(たい)(じょうが脳溢血で倒れた。辻は社長就任以来老軀をいとわず日夜刻苦こっく精励せいれい、社業の発展に奮闘を続けてすでに8年が経過していたが、当時は大戦終結による反動不況、昭和金融恐慌など不況の荒波に翻弄され続け、同社の業績は赤字・無配が続き、まさに苦難の時代であった。

律儀な辻は会社の不振を自分の責任として日夜苦悶し続けた(*)が、このことが辻の病気を誘発した一因であったようにも思われる。

(*)病床を見舞った吉本取締役は、辻の"無配"に対する苦衷(くちゅう)の述懐を聞いて深く心を打たれたという。

その後も辻の病状は捗々(はかばか)しくなく、取締役の吉本亀三郎に社長就任を望む声が役員からも、主要株主からも上がった。この頃鈴木商店を退職し自適中の身であった老齢の吉本は容易に応諾しなかったが昭和4(1929)年12月28日、周囲の声に押される形で第二代社長に就任した。70歳を目前にした吉本の社長就任であった。一方、辻は社長を辞任して取締役となり専ら静養につとめたが、病状は一進一退となり昭和5(1930)年7月2日、遂に帰らぬ人となった。

昭和4(1929)年7月、政府は緊縮政策をとり、続いて金解禁(金本位制度に復帰)を断行したが産業界は依然として不振の最中にあった。さらに同年秋にはアメリカ・ニューヨーク(ウォール街)発の世界恐慌が起こり、またイギリスのポンド危機が伝えられるなど、わが国の不況は好転するどころかその後も昭和5(1930)年、6(1931)年と続き、一層深刻の度を増していった。

一方で、この頃にはようやく「トンボ印」の製品の真価が認められ、販路拡張も実を結び、厳しい販売競争の最中ではあったが売上を維持することができた。また、吉本社長の尽力で融資が円滑になったことも奏功し、赤字には至らずにすんだ。しかし、依然として利益をあげるまでには至らなかった。

昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事件を発端とする満州事変が勃発すると次第に戦時色が濃くなり、騒然とした世相が続いた。不況に喘いでいたわが国は昭和6(1931)年12月以降の政府の積極政策により物価は上昇基調となり、工具類の販売も需要の増加により活況を呈してきた。世相は騒然としてきたものの、同社にとってはようやく長い間の不況を抜け出す兆しが見えるようになった。

昭和6(1931)年12月、政府が昭和金融恐慌対策として実施した金輸出再禁止(金本位制停止)による円安に助けられて輸出が急増し、景気は急速に回復していった。昭和8(1933)年には金融恐慌前の水準にまで回復し、産業界の景気好転により土木用品の需要は旺盛になった。

さらに昭和7(1932)年8月、景気対策を目的とする第63臨時議会(時局(じきょく)匡救(きょうきゅう)議会(ぎかい))において全国的に土木事業を振興することが決定された。これにより、同社の製品に対する需要は急増した。

同年10月、将来の鍛工品(たんこうひん)の需要増加を見越した同社は第一工場内に鍛造(たんぞう)工場と柄材乾燥倉庫を建設し、翌昭和8(1933)年6月には第一工場内に特殊薄板圧延工場(ロール圧延工場)を建設し、圧延ロール機を設置して、試行錯誤と苦心を重ねて主にアメリカから輸入した大型中古レールをショベル用薄板鋼板に加工する鋼板の自給体制を整えた。

同年11月19日、創立以来の功労者で取締役の浜口勇吉が死去した。浜口は、播磨造船所の大規模な海面埋立工事を自身が設立した浜口組が請け負ったこと、また作曲家・浜口庫之助の父であることでも知られている。

昭和8(1933)年には満州国もようやく政情・治安が安定して建設工事が本格化するようになり、同国を始め東南アジア、インド方面への輸出が激増した。同社への注文も急増して同年10月には生産高が創業以来のレコードを記録した。

昭和9(1934)年、同社は従来の設備では到底需要の急増に応じきれなくなったため、明石郡外林崎村(現・明石市)の土地建物(宅地937坪、建物268坪)を買収し同年9月1日、第二工場(木柄製造工場)および木材倉庫を建設して増産体制を整えた。

昭和9(1934)年8月13日、第二工場の広場に従業員(職員24名、工手250名)が一同に会し、同社創立15周年の祝典が盛大に開催された。吉本社長は同社15年史の巻頭言の中で創業後の苦難の時代を振り返るとともに、常に陣頭に立って同社を牽引していた矢野専務に対し次のように謝意を表している。

「‥‥然るに幸に如何なる苦難にも終始(かわ)らざる堅忍奮闘の士、矢野専務ありて、君が少壮気鋭にして細心の資性は()く会社と運命を共にせんとして、熱誠を以て製作の監督販売の拡張に尽瘁(じんすい)せられ、年少の社員を督励して一心に社運を隆盛に導きて、今日の実況に至らしめたるは苦難時代を顧みて吾々株主として感謝に堪えざるところである。‥‥」

日本工具製作(現・日工)の歴史⑤

  • 創立15周年記念式典

    第二工場前にて従業員一同

  • 吉本亀三郎
  • ロール圧延工場

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