日本工具製作(現・日工)の歴史⑤

戦時体制の最中、専務の矢野松三郎が第三代社長に就任

昭和12(1937)年7月7日に起こった盧溝橋事件を契機に日中戦争が始まると、従業員の中にも軍隊に召集される者が続出し、戦死者も出るようになった。

戦線の拡大とともに、軍事費の膨張と原材料の品不足により鋼材は著しく値上がりした。日本工具製作は逸早く鋼材を確保していたため生産に影響することはなかったが、製品は値上げに次ぐ値上げとなった。それでも同社には軍需産業を中心に注文が殺到し、未曾有の販売高を記録した。

同社は累増する注文に対処するため、急ぎ明石郡外林崎村(現・明石市)喜太夫に工場用地(3,600余坪)を購入して新工場の建設に着手し昭和12(1937)年12月、第三工場が竣工した。第三工場は第一工場からショベル、スコップの製造部門を移して農業用フォーク他農具の製造も開始し、第一工場は鋼材の製造部門に充て、第三工場は製品の加工仕上工場とした。

昭和12(1937)年11月22日、秋頃から体調を崩し静養に努めていた社長の吉本亀三郎が永眠した。吉本社長の葬儀は矢野専務を委員長としてしめやかに執り行われた。吉本は相談役、取締役として、さらに70歳を目前にした昭和4(1929)年からは社長として同社を率い、陰になり日向(ひなた)になり同社に尽くした功績は数えきれないほどであった。

吉本は万延元年(1860年)に高松市に出生し、工部大学校(後・帝国大学工科大学)を卒業後は陸軍省御用掛として砲台の建築工事に従事し、また兵庫県技師として神戸市築港調査を行って湊川改修工事にも貢献した。吉本は退官後に鈴木商店に入社するが、当時は工学博士としてその道の権威でもあった。後年、昭和42(1967)年5月に開催された神戸開港百年祭において、吉本に湊川改修工事の功労者として顕彰状が贈呈されている。(*)

(*)この時、鈴木商店の金子直吉にも神戸に一大総合商社を育て上げ、同市の繁栄に貢献したとして顕彰状が贈呈されている。

戦時色は日増しに濃くなり、各種非常時統制法が制定され戦時経済体制に移行するとともに、国民精神総動員運動が推進され昭和13(1938)年3月には総力戦体制の根幹となる国家総動員法が制定された。

昭和13(1938)年7月3日から5日にかけて、神戸市付近で後に「阪神大水害」と呼ばれる豪雨に起因する水害が発生した。この大水害による死者は616人、被災家屋は約9万戸にも達したという。

同社はこの大水害の発生に際し、応急救援作業・復旧工事用のショベル、ツルハシに同社製品を振り向けるとともに、ショベル500(ちょう)を神戸市に寄贈した。さらに、350名の全従業員で勤労奉仕団を組織して9台のトラックに分乗して出動し、神戸市内で復興作業に当たった。

昭和14(1939)年の紀元節(2月11日)、軍需生産の増強をはかるため「日本工具製作株式会社産業報国会」が結成され、同社は戦時体制に組み込まれていった。

昭和14(1939)年9月、ドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発した。当時は日本の大陸進出に伴い工具類の需要が増加する中で、同社の主要資材である鋼材は昭和13(1938)年7月より配給統制となった。しかし、スコップ用鋼板は時局柄必要品とされ、商工省より別途配給を受けることが出来たため支障なく生産を続けることができた。

昭和14(1939)年2月、鋼材不足への同社独自の対応策として、工場内で生じる屑鉄を原料として圧延工場用の鋼材を製造・自給すべく、第一工場内に電気炉工場を建設し生産を開始した。

昭和14(1939)年8月13日、物故役員・従業員の慰霊祭を兼ね、明石公会堂において創立20周年記念式典が開催された。同年12月28日、定時株主総会と取締役会が開催され、取締役互選の結果第三代社長に専務の矢野松三郎が就任した。新専務には天満信二、新常務には吉本敏夫(前社長・吉本亀三郎の長男)が就任した。同社の社長は吉本前社長が帰らぬ人となって以後約2年間空席となっていたが、ここに力強い布陣が誕生した。

矢野松三郎は27歳にして同社に入社し、以来同社創立後間もなく死去した奥田良三の後を受けて代表取締役専務として会社の要務に当たってきた。この間、矢野は(つじ)(たい)(じょう、吉本亀三郎の2代にわたる社長の下で実務に辣腕を振るった。

昭和7(1932)年3月に満州国が建国されて以来、日本の民間資本の進出が活発になっていたが、同社は昭和15(1940)年新春早々、満州国・奉天に出張所として「満州日工公司」を開設した。続いて同年3月16日、満州国の全得意先を対象にして「満州蜻蛉(とんぼ)会」を結成し、同年7月20日には朝鮮においても「朝鮮蜻蛉(とんぼ)会」を結成した。

さらに、同社は満州国の建国以来、同地への工場進出を計画し候補地の検分を進めていたが昭和16(1941)年7月31日、株式会社浅香本店との折半出資により()(じゅん)に「満州機工株式会社」を設立した。これにより満州国にも同社の礎を築くことができた。

同社は多くの統制会社の役員に就任したが、当時は企業の統制だけでなく個人生活もすべてが統制され、同社の従業員もスフの国民服にゲートルで足元を固め、戦闘帽をかぶって出勤し、食事はほとんどが大豆や高粱(こうりゃん)などの代用食で、防空壕堀り・土嚢(どのう)積み・バケツリレーなどの防火訓練も日課の一つであった。

昭和16(1941)年12月8日、遂に太平洋戦争に突入した。諸資材の不足はますます甚だしく、とくに電力、鋼屑、燃料はますます入手困難になった。特殊鋼やショベル、スコップ、ツルハシ、ハンマーなどの部門では正式に整備要綱が発表されたが、同社は重点工場として整備の対象とはならず、従来とそれほど変わりなく生産を続けることができた。

日本工具製作(現・日工)の歴史⑥

  • 第三工場造成地にて(昭和12年春)

    右から矢野専務、吉本社長、満野監査役

  • 第三工場上棟式当日の工場遠景(昭和12年10月30日)
  • 創立20周年記念式典 役員記念撮影

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