播磨造船所の歴史⑥

第一次世界大戦終結に伴う反動不況に翻弄される播磨造船所

大正7(1918)年に入り欧州での戦局はいよいよ激しくなったが、ドイツの内部崩壊による大戦の終結を察知した鈴木商店ロンドン支店長・高畑誠一は鈴木の本店に戦後の経営方針を進言する。

大戦終了後の反動不況を予想した鈴木商店は、経営が苦しくなっていた直営部門や関係会社について事業再編をはかることとし大正7(1918)年5月、造船と海運の緊密な連携をはかるべく播磨造船所は鳥羽造船所(大正5年12月に鈴木商店が買収・設立し、(みなと)が経営を指揮)、浪華造船所(大正6年に鈴木商店が買収)(*)とともに、鈴木商店が扱う貨物の輸送を担っていた帝国汽船(大正5年設立)に合併された。

(*) 大正8(1919)年6月、浪華造船所は帝国汽船の事業縮小方針により閉鎖された。

この結果帝国汽船は船舶部と造船部の2部制となり、両造船所は「帝国汽船播磨造船工場」、「同鳥羽造船工場」となった。当時の帝国汽船の役員は、社長 (二代目)鈴木岩治郎、取締役 柳田富士松西川文蔵、井田亦吉、芳川筍之助、辻湊、平田保三、監査役 日野誠義であったが、播磨造船工場は辻湊が取締役造船部長として引き続き経営の指揮に当たった。

鈴木商店本店焼き打ち事件のショックから3カ月後の大正7(1918)年11月、第一次世界大戦が終結する。大戦中に世界の船腹は甚だしく消耗したが、一方でアメリカの商船大量建造の結果、世界全体の船腹はかえって増大する結果となった。

大戦後しばらくの間、世界経済は復興需要に支えられ好調に推移したが、大正9(1920)年春ごろから急激な反動不況に突入し海上の輸送量は戦前の6割程度に減少したため、各国船主間の積荷の争奪、運賃の切崩しが行われ、運賃および傭船料は日を追って下落した。船価(トン当たり)は大正4(1915)年時を100円として、大正7(1918)年には900円まで急騰、大正10(1921)年には100円まで急落する。採算がとれなくなった船主は係船(船をつなぎとめて使用しないこと)を余儀なくされ、いわゆる「係船時代」が到来した。

金子直吉らの尽力により大正7(1918)年に成立した日米船鉄交換契約によりわが国の造船業界は一旦息を吹き返したが、大戦終結に伴う海運市況の低迷を受け、皮肉にも船鉄交換による余剰鉄材により建造された膨大な国内残留船腹の多くは過剰となってしまう。

その後、反動不況は予想以上に深刻になったため、帝国汽船は造船部を廃止することとなり大正10(1921)年2月15日、同社の造船部(播磨造船工場と鳥羽造船工場)は鈴木商店傘下の神戸製鋼所に合併された。この時、神戸製鋼所の幹部から播磨造船所と鳥羽造船所を閉鎖する案が出され議論が繰り返されが、当時神戸製鋼所の常務取締役であった田宮嘉右衛門は「単に会社が立ちゆかないから(つぶ)すということよりも、むしろいかにして生かして行くかを考えなければならない」とひとり終始一貫して閉鎖に反対し、この閉鎖案を撤回させた。

この結果、播磨造船所と鳥羽造船所はその負債を神戸製鋼所が引き受ける形で同社に合併し、播磨造船所は「神戸製鋼所造船部播磨造船工場」に、鳥羽造船所は「同鳥羽造船工場」となった。なお、鳥羽造船工場の一翼を担うことになる鳥羽電機製作工場(後・神鋼電機、現・シンフォニアテクノロジー)(*)はこの時発足した。

(*)シンフォニアテクノロジーの歴史は大正6(1917)年5月1日、辻湊が鳥羽造船所の一隅にわずか100坪の電機試作工場をつくり、電気係を組織したことから始まる。

これに伴い、辻湊は神戸製鋼所の取締役本社副長兼造船部長、平田保三は取締役技師長兼播磨造船工場長、三上英果(みかみひでみ)は取締役播磨造船工場副長にそれぞれ就任した。当時の神戸製鋼所の役員は、社長 伊藤乙二郎、専務取締役 依岡省輔、常務取締役 田宮嘉右衛門、取締役 (二代目)鈴木岩治郎、松田萬太郎、松尾忠二郎、辻湊、平田保三、三上英果、監査役 吉井幸蔵、柳田富士松であった。

そして従業員の整理が断行され、播磨造船工場の大正9(1920)年末の工員5,255名は翌大正10(1921)年3月末には3,713名に減少し、同9年末の職員340名の職員は翌年3月末には226名に減少する。

大戦後の反動不況に拍車をかけたのが大正10(1921)年11月、ワシントンで開催されたイギリス、アメリカ、日本、フランスによる軍縮会議(ワシントン会議)であった。翌大正11(1922)年2月にはイギリス、アメリカ、日本、フランス、イタリアの間で海軍軍備制限条約が成立し、参加各国の間で艦船建造を制限することが決定した。

この条約で主力艦(戦艦・巡洋戦艦)の合計基準排水量は、イギリスとアメリカがそれぞれ52万5,000トン(比率5)、日本31万5,000トン(同3)、フランスとイタリアがそれぞれ17万5,000トン(同1.67)に制限され、航空母艦の合計基準排水量はイギリスとアメリカが13万5,000トン、日本が8万1,000トン、フランスとイタリアが6万トンに制限された。

これに伴い、日本海軍は建造済の「長門」、「陸奥」と航空母艦に転換された「赤城」、「加賀」のほかは建造中止を余儀なくされた。当時軍需に転換をはかりつつあった造船各社および軍需関連企業は「八八艦隊」の建造(*)という海軍大拡張計画に伴う軍需に期待していたが、各社の事業拡大方針はたちまちにして挫折することとなった。

(*) 戦艦8隻・巡洋戦艦8隻の建造を主軸とし多数の巡洋艦・駆逐艦を建造するという大艦隊整備計画。アメリカ海軍が立てた新戦略「戦艦10隻・巡洋戦艦6隻」に対抗する計画であったことからこのように呼ばれた。予算は大正9(1920)年の第43議会で通過し、建造費はわが国の国家予算レベルの莫大なものになる予定であった。

反動不況により大きな打撃を受け業績が悪化の一途をたどっていた鈴木商店は、金子直吉が軍事拡張をあてにした起死回生策が不発に終わり、鈴木商店傘下の企業は大きな打撃を受けた。神戸製鋼所では八八艦隊計画に伴う需要増大に備えて大型機械の一貫製作を行う製鋼、鋳鋼、鍛鋼各工場を建設したが、一転して400名の人員整理、民需への方向転換を余儀なくされ、播磨造船工場、鳥羽造船工場もたちまち苦境に陥った。

政府は造船界の不況打開のため諸施策を講ずるも、不況の大勢を如何ともすることができず、大型船の建造を主体としていた播磨造船工場も大正11(1922)年以降は小型船および陸上機械、鉄骨工事(橋梁、鉄柱、油槽、水圧鉄管)等諸工事にも積極的に進出せざるを得ない状況となった。

さらに追い打ちをかけるように大正12(1923)年9月1日、関東大震災が発生しわが国の経済は大混乱に陥る。ところが、関東地方の造船所は大被害を受けて一時休業状態になったので、当時苦境のどん底に(あえ)いでいた関西の造船所に船舶の修繕工事等が殺到し、皮肉にも播磨造船工場も一時的ながら活況を取り戻した。

播磨造船所の歴史⑦

  • 播磨造船所全景(大正10年頃) 
  • 田宮嘉右衛門 
  • ワシントン軍縮会議(大正10年11月~11年2月)

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