鈴木商店の生産事業を支えた技術者シリーズ④「秦逸三と人造絹糸の製造(その2)」をご紹介します。

2023.5.25.

hataituzou.PNG大正5(1916)年11月、秦逸(はたいつ)(ぞう)は人絹製造が苦戦する中、金子から外務大臣の英国・コートルズ社への紹介状を受け取りモスクワに赴きましたが、モスクワの工場では工場の見学は許されませんでした。

その後、ロンドンに向い、高畑が手配してくれたコートルズ社のロンドン支配人と面談するも「実験室で指導することはできない。提携も興味なし」と断られました。

秦はコートルズ社の工場のあるコヴェントリーに立ち寄り、工場の排水を汲み取ったり、職工をご馳走して工場の見取図を書かせたりしました。そして職工の服についていた人絹糸を見つけて1本つまみ取り、宿に帰ってからつくづく眺めて「これがコートルズの糸か」と男泣きしたといいます。フランスでもこれといった収穫を得ることはできませんでした。

youkoutyuunohataituzou2.png続いて秦はアメリカに渡り、鈴木商店ニューヨーク支店の協力を得て人絹製造のための遠心分離機、圧濾機、ビスコースの攪拌成熟機を購入し大正7(1918)年3月に帰国しましたが、秦はあまりの収穫の無さに、痛恨と絶望から船中で自殺を考えたこともあったといいます。(右の写真は外遊中の秦(右)です)

折しも、第一次世界大戦の長期化で人絹の輸入が急減し、品質に関係なく突然注文が増加し、価格も暴騰するという追い風が吹きました。また、この頃には秦と久村の研究の成果により徐々に品質が向上し、ようやく工場の生産が軌道に乗る兆しが見えてきたことから、東工業から人絹部門である米沢工場を独立させることになりました。(下の写真左はライトアップされた旧米沢高等工業(現・山形大学工学部)、右は米沢工場初期の人造絹糸です)

jinnzoukennsi2.png大正7(1918)年6月17日、帝国人造絹糸(現・帝人)の創立総会が開催されました。社長には鈴木岩蔵、専務には佐藤法潤と松島誠、取締役には久村清太と秦逸三、監査役には西川文蔵、松田茂太郎らが就任しました。経営の実際の責任者は松島誠、技師長は久村清太でした。

米沢工場の方は、工場長・長本庄利平、技師長・秦逸三の二人が工場の運営にあたりました。(下の写真左は「紡糸機」、右は初荷を祝す米沢工場の人々です)

bousikikoujyounohitobito2.png大正7(1918)年5月、今度は久村がアメリカへ出張しました。久村の出張では大きな収穫が得られ、米沢工場の人絹糸の糸質は改善され生産量も増加しました。広島工場の建設(大正10年竣工)に当たっても久村のアメリカ視察が大いに役立ちました。

さらに、大正15(1926)年には岩国工場が竣工。最新式設備を備えた岩国工場の生産量は初年度に広島工場に並び、以後帝国人造絹糸のドル箱工場となりました。こうして、帝国人造絹糸はそれまでの鈴木商店のお荷物企業から一転して花形企業となりました。

hataituzoukyouzou3.png昭和3(1928)年、秦は久村とともにビスコース法レーヨンの工業化を評価され、藍綬褒章を受章しました。一方、米沢工場は第一次大戦後の好景気で好業績の時期もありましたが、設備が旧式になったこともあり昭和6(1931)年11月、操業を停止しました。

昭和9(1934)年、秦は帝国人造絹糸常務取締役に就任。同年、兼任で第二帝国人絹(*)の取締役社長に就任。昭和17(1942)年には帝国人造絹糸の顧問に就任しました。

(*)三原工場の完成を間近に控えた昭和9(1934)年9月、帝国人造絹糸は昭和7(1932)年頃から始まった人絹の設備増強競争が過熱したことから、100%子会社として第二帝国人絹を設立しました。自社の工場を建設して生産能力を増強するのではなく、子会社として設立したのは、生産過剰時代を予想した久村社長(久村は昭和9年に帝国人造絹糸社長に就任)の判断であり、その背景には無制限の増資と設備拡張への政府の抑制等がありました。

上の写真は秦逸三の胸像です。この胸像は長く広島県の帝人三原事業所(旧・三原工場)に設置されていましたが、(あずま)工業米沢人造絹糸製造所の創業100年に当たる平成27(2015)年に帝人から米沢市に寄付され、平成28(2016)年9月25日(日)に「松が(さき)第2公園」に多くの関係者が参集して胸像移設除幕式が盛大に開催され、胸像は上杉神社参道沿いに設置されました。

鈴木商店の生産事業を支えた技術者シリーズ⑤「久村清太と人造絹糸の製造(その1)」をご紹介します。

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