人絹

我が国初の人絹国産化を実現した帝国人造絹糸・米沢工場

人造絹糸は、金子直吉の「何とかして外国の援助を借りずに織物用の繊維を作りたい」との長年の希望から実現した。鈴木商店の化学部門の出発点となる東レザー(後の東工業)を母体に設立した帝国人造絹糸は、日本セルロイド人造絹糸(大日本セルロイドを経て現・ダイセル)では実現できなかった金子の夢を叶えた我が国初の人絹国産化事業であった。

◆帝国人造絹糸(現・帝人)
 設立      大正7(1918)年
 所在地     山形県米沢市  

金子は当初、人絹の国産化を日本セルロイド人造絹糸で試みようとした。鈴木、岩井商店、三菱の3社共同出資の同社は、セルロイド、火薬、人造絹糸の各事業を計画。人絹の国産化に熱心だった金子は、ドイツ・ベンベルグ社と技術導入を交渉するも、同社がセルロイド事業で大損失を出したため、人絹製造計画を中止した。これにより同社での人絹国産化は中断のまま再開することはなかった。

人絹の製造法は、ヨーロッパ先進国ではビスコース法へ転換されつつあったが、国際カルテルが結ばれ技術導入が難しくなり自主技術の開発が必須となった。こうした折、鈴木商店では、傘下の東レザーでビスコースの研究をしていた久村清太と久村の学友で米沢高等工業学校(現・山形大学工学部)の講師でやはりビスコース人絹の研究をしていた秦逸三を資金援助し、東レザーの分工場・米沢人造絹糸製造所を実験工場として、工業化を成功させた。

大正4(1915)年東工業と商号変更した東レザーは、人造絹糸への進出を契機に大正7(1918)年、米沢人造絹糸製造所を分離独立させ、帝国人造絹糸(現帝人)を設立した。さらに大正9(1920)年広島工場を建設して米沢、広島両工場より良質の人絹が生産された。

帝国人造絹糸・岩国工場が竣工した昭和2(1927)年、鈴木商店の破綻もあり、岩国工場に比べ効率性が劣った米沢工場を閉鎖し、創業の地・米沢から本社を繊維業の本場でもあった大阪・船場にも近い大阪・中之島に移転。岩国工場に加え、その後竣工した三原工場、松山工場等西日本に生産拠点を移すことになった。

戦後、主力のレイヨンの需要低下から苦境に陥った帝国人造絹糸は、政界から復帰した大屋晋三が社長に就任し、英ICI社からポリエステル製造技術を導入して復活するとライバル東洋レーヨン(現・東レ)とともに化学繊維メーカーとして確固たる地位を確立した。

関連リンク

  • 米沢高等工業学校
  • 人繊工業発祥之碑(米沢)
  • 秦逸三教授記念室
  • 日本化学会の化学遺産に指定された米沢工場の人絹
  • 帝人岩国工場(絵葉書)

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