鈴木商店の生産事業を支えた技術者シリーズ⑥「久保田四郎と油脂事業」をご紹介します。

2023.12.22.

kubotasirou.PNG久保田四郎(左の写真)は明治23(1890)年頃兵庫県に出生。東京帝国大学工学部応用化学科で油脂加工を学び明治45(1912)年に卒業すると鈴木商店に技師として入社しました。

未だわが国に硬化油の技術が確立されていない明治後期、鈴木商店は北海道で集荷した魚油(いわし油、にしん油)を神戸市の(かる)()(じま)に輸送し、直火の釜で加熱し酸性白土を加えて脱色し、臭いと(おり)を除き精製油としてイリス商会を通じてドイツに輸出していました。

その魚油をイリス商会以外に販売すると同商会が「目を丸くして怒る」ことから、金子直吉は「わが国では敬遠されている臭い魚油を外国では一体何に使用するのだろうか? 魚油に何らかの加工を施した上で、高く売って儲けているのではないだろうか?」と常々不審に思っていました。(下の写真は鈴木商店が博覧会に出品した魚油の見本です)

gyoyunomihon3.pngそこで、金子は卒業論文が油脂に関する研究であった久保田に命じて油脂加工の研究に従事させたところ、後日金子は久保田より「西洋ではイワシやニシンの油に水素を添加して(ろう)の状態に変化させる発明があり、これを石鹸にしたりロウソクにしたり、その副産物としてグリセリン、オレイン油などをとって大変金を儲けている」という報告を受けました。 つまり、ヨーロッパではわが国より一足先に硬化油生産の工業化が始まっていたのです。

この報告を受けた金子は、久保田に「是非この方面の研究を進めて、安い魚油を外国に輸出せず、日本でも石鹸やグリセリンのようなものに精製して輸出するように」と硬化油の研究を命じました。わが国の硬化油工業は実にこの金子の慧眼によって発祥したといっても過言ではありません。

金子から硬化油の研究を命じられた久保田は、鈴木商店の魚油倉庫(神戸市・(かる)()(じま))の片隅に設けられたわずか2~3坪ほどの小さな研究室で1年余り研究を続けましたが、これがやがて硬化油工業へと進展していく最初の核となりました。

鈴木商店は神戸市(わきの)(はま)の神戸製鋼所内の中央研究所に硬化油パイロットプラントを建設することを決定し大正3(1914)年に発電機の据え付けを完了し、水素を製造するための電解槽の運転を開始しましたが、技術の未熟さと不注意から運転中に故障が頻発し、ついには苦労して建設した水電解工場が2度にわたり大爆発を起こすなど、一時はプラントの稼働が危ぶまれるほどでした。

koukayu.JPG久保田は自身の随筆「油村の思い出とエピソード」において、当時の苦労を次のように語っています。

「 ・・・・ 何分初めての経験であるし、計算通りに行かぬのみならず、運転中故障多く、なかなか水素の供給ができないので、私の硬化油工業化の試験は足踏み状態となり、・・・・ 試験工場は矢の催促を受けたが、製造の方は何分装置のことごとくが新規の考案を要するのと、これを具体化してみると、思わぬところに欠点が出て来て、一向にはかどらない。従って出来た製品は、雪白のものができたかと思うと、中には3日も4日も固まらないため、種々雑多の色相を呈し、硬化油の昔話のあるごとに、当時の硬化油は、五色の硬化油であったと、笑話の一つになったほどである。その間の工場の苦心は言語を絶したものがあり、2回も大爆発をやったほどで、到底今日では想像もつかぬほどであった」(上の写真は「硬化油」です。画像提供:日油株式会社)

大正3(1914)年末、20馬力撹拌機(かくはんき)を備えた竪型レーン式200斤 (120kg)入りオートクレーブ(耐圧気密の硬化釜)による硬化油パイロットプラント(日産100kg)が完成しました。

hyougokoujyouo2.PNG大正4(1915)年、鈴木商店製油所兵庫工場(右の写真)が完成し初代工場長には久保田が就任しました。

翌大正5(1916)年には魚油を用いた日産5トンの硬化油製造に成功しましたが、鈴木商店が初めて工業的に硬化油を開発し、その後油脂工業界に革新的変化をもたらしたという点において、これがわが国における硬化油工業の嚆矢(こうし)と言ってもよいでしょう。

久保田に協力して硬化油パイロットプラントと兵庫工場の建設・運転に当たったのが、当時鈴木商店の化学部門における最高顧問格であった村橋素吉(元・鉄道院化学試験所の主任技師)、村橋の鉄道院時代の部下であった牧実、小林商店(現・ライオン)に在籍していた磯部房信(後・クロード式窒素工業創業時の技術監督)、長郷幸治、二階堂行徳の5名でした。

saisyonokokusannkoukagama.PNG久保田を始めとする彼ら鈴木商店の技術陣は鈴木商店という一企業の枠を超え、わが国油脂工業界の柱石であったということができるでしょう。(左の写真は村橋が苦心の末に考案した最初の国産硬化釜(「陣笠猿廻型硬化釜」と呼ばれていました)の設計図です。

この間、金子は硬化油工業化の成功を信じて多額の赤字を顧みず、久保田らの研究を督励しました。

鈴木商店は魚油に続いて大豆油の製油・硬化の工業化を進めるべく、まず大正4(1915)年にドイツの「ベンジン抽出法」を導入していた「満鉄豆油製造所(後・鈴木商店大連工場)を買収し、大豆の製油事業に進出すると、その後は国内に製油・硬化製油のための直営油脂工場の建設を順次進め、油脂事業を強力に展開していきました。(製油工場: 鳴尾、清水、横浜、硬化製油工場: 兵庫、保土ヶ谷、王子 [右下の画像] )

suzukisyoutennseiyusyooujikoujyou.PNG久保田は、油脂事業の研究者として数多くの実績を残したのみならず、鈴木商店製油所兵庫工場長、スタンダード油脂取締役、合同油脂グリセリン常務取締役、(第一次)日本油脂常務取締役・専務取締役・副社長、さらに(第二次)日本油脂の顧問に就任し、現在の日油に至るまでの紆余曲折を経ての統合・合併に際し経営陣としての手腕を遺憾なく発揮し、同社の発展に大いに貢献しました。

なお、研究者としては次のような論文を残しています。
〇「グリセリン工業に就いて」論文 工業化学雑誌 1937年
〇「最近の油脂工業」論文 工業化学雑誌 1942年
〇「南方油脂資源の利用と我国油脂事情に就いて」論文 工業化学雑誌 1942年
〇「油脂業界の現状及び将来―特集・油脂工業」論文 化学工業誌 1950年8月
〇「事業の概況」久保田四郎編 合同油脂(株) 昭和8(1933)年

鈴木商店の生産事業を支えた技術者シリーズ⑦「鈴木商店の化学事業に多大な貢献を果たした磯部房信(その1)」をご紹介します。

関連リンク

TOP