鈴木商店の生産事業を支えた技術者シリーズ⑦「鈴木商店の化学事業に多大な貢献を果たした磯部房信(その1)」をご紹介します。

2024.1.10.

isobehusanobu5.png明治16(1883)年、磯部房信は(なか)家の次男として出生(出生地は神奈川県と思われます)し、5歳の時に母と生別、9歳の時には父と死別し、15歳まで兄とともに祖母に育てられました。そして明治35(1902)年、磯部家(母の姉夫婦)の養子となります。

明治36(1903)年1月、磯部はわずか20ドル相当の所持金を所持して単身渡米し、いわゆる "スクールボーイ" として働きながらサリナス市(カリフォルニア州)のハイスクールに入学しました。

明治39(1906)年にはインディアナ大学(インディアナ州ブル―ミントン市)に入学し、ホテルの掃除夫や散髪職人として働きながら化学を学びました。(下の写真は、現在のインディアナ大学ブル―ミントン校です。画像提供:Indiana University Communications and Marketing)

indianadaigakuburuumintonkoukyanpasu.png明治42(1909)年6月、磯部はインディアナ大学を卒業すると同年10月、ウィスコンシン大学大学院(ウィスコンシン州マディソン市)に入学し、やはり働きながら水銀法による苛性ソーダ製造法の研究に打ち込みました。この間、磯部は日本の磯部家に毎月欠かさず仕送りをしていました。

アメリカで苦学すること7年、磯部は明治43(1910)年6月にマスターオブサイエンスの学位を授与されました。
その後、シカゴの製鉄会社に技師として入社するも同年10月、再びウィスコンシン大学大学院に入学し、博士候補生となりました。しかし、恩師のアドバイスもあり明治45(1912)年、マディソン市を後に帰国の途に就きました。(下の画像は、磯部がブル―ミントン市から中家の叔父・叔母に宛てた年賀状です)

isobehusanobutegaki.png磯部は帰国後、小林富次郎商店(後・ライオン歯磨、現・ライオン)の創業者、小林富次郎に面会する機会を得ると、同商店の化学試験所新設に当たり技術者として招へいされ、芳香油(ほうこうゆ)の研究に打ち込みました。

その後、磯部は鉄道院東部管理局長の紹介により、鉄道院化学試験所の主任技師から鈴木商店に転じていた村橋素吉(鈴木商店の化学部門における最高顧問格)と面会し、鈴木商店が取組初めていた硬化油の製造試験に誘われ、金子直吉と面会しました。

※この時、磯部は金子の印象について次のように記しています。
「金子氏は少しも風采があがらぬが、実に面白い人物だと思った」

その結果、磯部は硬化油の製造試験はアメリカの大学・大学院での研究に直結すると判断し大正2(1913)年12月、30歳の時に小林富次郎商店から転じ、鈴木商店に入社しました。この時、小林富次郎は磯部の転職に快く同意したといいます。これ以降、磯部は硬化油の製造を始めとする鈴木商店が推進する最先端の化学事業に力を尽くすことになります。

明治後期、鈴木商店は精製した魚油(いわし油、にしん油)をイリス商会を通じてドイツに販売していましたが、その魚油をイリス商会以外に販売すると同商会が「目を丸くして怒る」こと端を発し、金子直吉は西洋ではすでに硬化油の工業化が始まっていたことを知ります。そこで、金子は直ちに、東京帝国大学工学部応用化学科で油脂加工を学び明治45(1912)年に鈴木商店に技師として入社したばかりの久保田四郎に硬化油の研究・工業化を命じました。

この硬化油生産の工業化の実現のために、久保田を始め磯部房信、前記の村橋素吉、村橋の鉄道院時代の部下であった牧実、長郷幸治、二階堂行徳といった選りすぐりの技術者が集結しました。

大正3(1914)年末、兵庫県脇浜の神戸製鋼所内の中央研究所において、水素製造用の電解工場が2度にわたり大爆発を起こすなどの苦難を乗り越え、20馬力撹拌機(かくはんき)を備えた竪型レーン式200斤(120kg)入りオートクレーブ(耐圧気密の硬化釜)による硬化油パイロットプラントが完成しました。

18_suzukishotenseiyujyo_T7.jpg水電解工場の建設に当たっては、磯部が工場主任となって硬化油製造試験に邁進しました。前記の6名の技術者は鈴木商店という一企業の枠を超え、わが国油脂工業界の柱石であったということができるでしょう。

翌大正4(1915)年6月、兵庫運河の河口に鈴木商店製油所兵庫工場(左の画像)が完成し、翌大正5(1916)年4月に操業を開始し、魚油による硬化油生産が始まりました。


鈴木商店が初めて工業的に硬化油を開発し、その後油脂工業界に革新的変化をもたらしたという点において、これがわが国における硬化油工業の嚆矢こうしと言われています。

大正6(1917)年、鈴木商店は兵庫工場に続いて王子(東京府)と保土ヶ谷(神奈川県)にも硬化油工場を建設し、大正10(1921)年には王子工場を分離独立させてスタンダード油脂を設立し、その後は合同油脂グリセリン、合同油脂、(第一次)日本油脂、日産化学工業、(第二次)日本油脂と幾多の合併等を経て平成19(2007)年に社名を日油に改称し、今日に至っています。

鈴木商店の生産事業を支えた技術者シリーズ⑦「鈴木商店の化学事業に多大な貢献を果たした磯部房信(その2)」をご紹介します。

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