磯部房信

鈴木商店の数々の化学事業に多大な貢献を果たす

生年 明治16(1883)年
没年 昭和39(1964)年8月8日

明治16(1883)年、中家の次男として出生。(出生地は神奈川県と推定される)5歳の時に母と生別、9歳の時には父と死別し明治35(1902)年、磯部家(母の姉夫婦)の養子となる。

明治36(1903)年1月、単身渡米し、働きながらサリナス市(カリフォルニア州)のハイスクールに入学。明治39(1906)年、インディアナ大学(インディアナ州ブル―ミントン市)に入学し、ホテルの掃除夫や散髪職人として働きながら化学を学ぶ。

明治42(1909)年6月、インディアナ大学を卒業すると同年10月、ウィスコンシン大学大学院(ウィスコンシン州マディソン市)に入学。やはり働きながら水銀法による苛性ソーダ製造法の研究に打ち込む。

明治43(1910)年6月、アメリカで苦学すること7年、マスターオブサイエンスの学位を授与される。その後、シカゴの製鉄会社に技師として入社するも同年10月、再びウィスコンシン大学大学院に入学し博士候補生となるが、恩師のアドバイスもあり明治45(1912)年、帰国の途に就く。

帰国後、小林富次郎商店(現・ライオン)の化学試験所新設に当たり技術者として招へいされ、芳香油の研究に打ち込む。大正2(1913)年12月、30歳の時に、鉄道院化学試験所の主任技師から鈴木商店に転じていた村橋素吉(鈴木商店の化学部門における最高顧問格)から硬化油の製造試験に誘われ、小林富次郎商店から転じ鈴木商店に入社。

金子直吉から硬化油の研究を命じられた久保田四郎の下に村橋素吉、牧実、長郷幸治、二階堂行徳、磯部の5名が集結し大正3(1914)年末、幾多の苦難を乗り越え硬化油パイロットプラントが完成。磯部が工場主任となって硬化油製造試験に邁進。

大正5(1916)年4月、鈴木商店製油所兵庫工場において硬化油製造に成功。鈴木商店が初めて工業的に硬化油を開発し、その後油脂工業界に革新的変化をもたらしたという点において、これがわが国における硬化油工業の嚆矢と言われている。

兵庫工場の建設に目途をつけた磯部は金子直吉の命を受け、当時ベンジン抽出法による大豆搾油を行っていた「満鉄(南満州鉄道)豆油製造所」の買収計画を立案し、金子直吉とともに満鉄総裁の中村是公と交渉した結果大正4(1915)年9月、満鉄豆油製造所の経営は鈴木商店に移譲され、鈴木商店製油部の大連工場(鈴木油房)となり、磯部は同工場の工場長として渡満。さらに、日本国内に大規模製油工場を建設する計画を金子に進言し、大正5(1916)年以降、清水工場、横浜工場、鳴尾工場を建設。清水、横浜、鳴尾、大連の4工場(後・豊年製油、現・J-オイルミルズ)の監督者となる。

大正7(1918)年2月、第一次世界大戦の勃発に伴う工業用ソーダ(炭酸ナトリウム)のわが国への輸入途絶という非常事態を受け、ソーダの自給方策を模索すべく渡米。大正8(1919)年1月、単身、英国・プラナーモンド本社を訪問し、満州の大日本塩業の塩田を基礎とする共同出資によるソーダ工場の建設について同社の経営陣と議論を重ねるも不調に終わる。

その後、鈴木商店ロンドン支店長の高畑誠一と歩調を一にした努力が実を結び、英領東アフリカ(現・ケニア)マガディ湖畔の英国・マガディソーダ社が販売するマガディ湖産天然ソーダの東洋における一手販売権を獲得。大正8(1919)年10月、この時の契約に基づきソーダの輸入販売会社として太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)が設立され、磯部は鈴木商店の幹部とともに同社の役員に名を連ねた。

大正10(1921)年、クロード法によるアンモニア合成技術視察のため渡仏。大正11(1922)年4月、合成アンモニアを製造すべくクロード式窒素工業が設立され、磯部が技術監督に就任し、プロジェクトの推進役を務める。大正13(1924)年12月、日本金属彦島製錬所構内の試験工場で国最初の1,000気圧という超高圧利用による合成アンモニアの試験的生産に成功し、量産の目処をつけた。その後、磯部は同社の専務取締役、後に同社の経営を引き継ぐ第一窒素工業の代表取締役に就任。

小川実三郎(日商監査役、日輪ゴム工業社長)は辰巳会の会報「たつみ」の寄稿文の中で、磯部の人となりについて次のように記している。
「君は鈴木の事業中でも特に先端を行く新進新鋭事業と自ら進んで取組み、幾多の隘路を打開し、遮二無二目的を達成させるその勇往邁進振りは常人には一寸できないものであった。アメリカ育ちで物事を処理するに当たっても徒に左顧右眄することなく単刀直入これに向うので、時に周囲の人から誤解を受けることもあったが、その手腕と見識は実に尊敬す可きものがあった。君はまたなかなかの策士でありながら、普通策士につきものの陰険さは微塵もなかった許(ばかり)りか、実に明朗闊達な気持ちのいい人だった。」

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