神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の第38回をご紹介します。

2017.3.20.

神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の「エピローグ インタビュー㊤ (38)破綻に学ぶことは?」が、3月19日(日)の神戸新聞に掲載されました。

今回の記事では、作家の幸田真音(まいん)さんと神戸大学大学院教授の三品(みしな)和広さんのお二人が、鈴木商店の破綻から思うことについて述べています。幸田さんは、鈴木は多様性を持つ組織を築けず、真のリスク管理ができる優れたブレーンがいなかったと語り、三品さんは、企業の価値は人を育てることにあり、金子直吉は若い社員に大きな仕事を任せて大勢の人を育て、鈴木は日本経済を牽引する人材を輩出したが、そこが経営者として彼のすごいところと語っています。

nisikawabunnzou.PNG鈴木商店の優れたブレーンとしては、金子直吉の信任厚く右腕として活躍していた支配人・西川文蔵(左の写真)が近代的な組織づくりの柱石ともいうべき存在でしたが大正9(1920)年、46歳の若さで急逝します。このことは鈴木商店にとって致命的ともいうべき打撃でした。

高畑誠一永井幸太郎の二人は西川とともに組織の近代化を進めるべく腐心していましたが、高畑は長期間ロンドン支店長として海外に赴任しており、一方の永井は大正13(1924)年、鈴木の取締役本店総支配人から大阪支店の中にあった鈴木系列の日本商業の責任者として出向を命じられ、二人とも神戸にいたワンマンの金子に直言できる状況にはありませんでした。

kanekobunnzou.PNG金子直吉が人を育てたことについては、長男・金子文蔵(太陽産業[現・太陽鉱工]監査役)(右の写真)は次のように語っています。

「...もう一つの遺産は私共の家で所謂書生として生活した多くの方々でしょう。昭和二年まで、どの時代にも丁度一種の塾のようなわが家でした。ただ普通の塾と異なり学資から食事すべて我が子同様にし、何等そくばくもせず最高学府に進ませ、卒業後も各自の思うままに雄飛させ、よき人々を作り出すことを、何よりの喜びとしていたようです。

それでこれらの方々も休暇でも己が実家に帰らず、小生の父母のもとに帰りきて、休みを一同で楽しく過ごしたものでした。その後も十五六人或はそれ以上でしょうが多くは現在指導的地位にあられる方々で、発起人執筆者諸氏等と共にこれ等の方々の有形無形の御高援は、私ども何時も深く感謝しているところです。」

kitamuratokutarou.PNGまた、北村徳太郎(播磨造船所支配人、佐世保商業銀行[現・親和銀行]頭取、運輸大臣、大蔵大臣)(左の写真)は次のように語っています。

「金子さんは、こいつに任せていいと思えば、一切任せる。思うようにやれということで、いちいち報告を出させて目を通してということはしない。たまに行って現状を報告すると何も言わない。よかった、よかったということで。

若者に任せるということは『言うは易く、行うは難し』。だが金子はそれができた。三井、三菱のような人材の蓄積に乏しい鈴木は若者に頼らなければやっていけない。若いエネルギーを最大限に利用するには任せるにしかずと自分に言い聞かせた。

実際金子は私欲というものがなかった。金子と接した人、十人が十人認める。そして人使いの妙も天才的であったらしい。鈴木商店はつぶれたけれども、金子の人物養成は、あるいは人を見る見方は間違っていなかった。だから日本の各界に人間を相当出した。鈴木のような、ああいう妙な行儀作法も心得ないところから人材が出た。これは珍しい例だ。金子直吉は大教育者であった。人間形成の土台をよく見て、あいつはこういう風に仕向けろというわけです。えらい教育者であった。」

4_04_01_oya%20sinzo.jpg大屋晋三(帝人社長、大蔵大臣、商工大臣、運輸大臣)(右の写真)も次のように語っています。

「鈴木商店は私の期待に背かなかった。新興の会社だけにすべてが自由で積極的である。躍進途上の会社なのでまだ人もそろわず、したがって新入社員といえども十分に腕をふるう機会が与えられた。

私は入社して間もなく樟脳部に入り、樟脳と薄荷の取引に当ったが、これは当時おもしろいほどもうかる商売だった。私の責任で一日に当時の金で百万円(現在の数億円)もの取引をしたこともあるし、薄荷の建値を一日の間に七十円から百円もつりあげたこともある。第一次大戦末期の好況期ではあったが、既成の会社だったら学校出の若僧にこんなに大きな権限は与えなかっただろう。」

下記関連リンクの神戸新聞社・電子版「神戸新聞NEXT」から記事の一部をご覧下いただくことができます。

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