神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の第13回「『糸へん』事業の隆盛」をご紹介します。

2016.8.21.

tamiyatokaneko.PNG神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の本編「第2部 世界へ (13)「糸へん」事業の隆盛 紡績会社逃し、製鉄業へ」が、8月21日(日)の神戸新聞に掲載されました。

今回の記事は、明治中期に濠州貿易兼松房次郎商店(現・兼松)、尼崎紡績(現・ユニチカ)、鐘淵(かねがふち)紡績(旧・カネボウ)、日本毛織、都賀(とが)(はま)麻布(現・小泉製麻(せいま))など「糸へん」事業が興り、神戸港が綿花を輸入し、糸・布などの製品を輸出する拠点として飛躍していくくだりから始まります。さらに、鐘淵紡績の盛衰について記述され、紡績業への進出を計画していた金子直吉(鈴木商店)が西宮紡績の買収を目論むも失敗に終わり、不本意ながらも小林製鋼所(後の神戸製鋼所)を買収するに至った経緯などが描かれています。

kobayasiseiitirou.PNG明治34(1901)年、政府は官営八幡製鉄所を建設しましたが、一時操業を中止するなど経営はなかなか軌道に乗らず、当時製鋼業はとても民間企業が取り組む事業とは考えられない状況にありました。

このような中、明治38(1905)年、東京の書籍業者・小林清一郎(左の写真)は呉海軍工廠に勤務する少技監・小杉辰三の勧めにより、神戸・脇浜に小林製鋼所を設立して製鋼業に進出します。小杉も退官し、海軍工廠の優秀な職工5名を引き連れてイギリスのビッカース製鋼会社にて1年間研修を積みました。

当時、鈴木商店は同社の工場建設に協力し、建設資材の代金および建設資金を融資していました。

しかし、来賓を招いての出鋼式では、出鋼の合図とともに炉から流れ出した溶鋼は取鍋の半ばを満たしたところで固まりだし、湯道も黒くなって完全にストップ。取鍋の溶鋼すら改修できない状況となり、完全な失敗に終わります。その後もまったく操業できない状況が続き、小林は製鋼業が技術の蓄積と巨額の資金を要する容易な事業ではないことを痛感します。

小林は操業1カ月あまりで工場を売却することを決意し、鈴木商店に救済を求めました。結局、金子直吉は小林製鋼所に対する多額の融資の肩代わりに経営を引き受けることになります。

実は、もともと金子は本気で小林製鋼所を買収する気はなかったのです。当時、鈴木商店は薄荷、樟脳、砂糖の製造・販売という軽工業を中心に事業を展開しており、金子は続いて紡績業への進出を計画していました。折しも明治37(1904)年2月、日露戦争が勃発すると軍需品以外は生産が極端に縮小し、紡績業などは深刻な打撃を受け、関西では日本紡織(ぼうしょく)(西宮紡績)(明治28年、金子と昵懇(じっこん)であった百三十銀行頭取・松本重太郎が設立)が支払停止に陥り苦境に立たされていました。

金子は日露戦争終結後の紡績業の大発展を念頭に、この西宮紡績の買収を思い立ちます。しかし、当時鈴木商店は大里(だいり)製糖所の設立と住友樟脳製造所の買収直後で資金が不足していたため、松本重太郎の意見に従い、長期年賦による買収の機会を探っていました。

ところがある日、金子は西宮紡績が内外綿()(会社(明治20年設立)に自分の考えた以上の好条件で売却されたという新聞記事を目にします。金子の落胆はたとえようがなく、放心状態となり「トビに油あげをさらわれたようなものだ」と悔しがったといいます。小林製鋼所売却の話が持ち込まれたのはこのような最中のことでした。

「神戸製鋼30年史」には当時の経緯が金子自身の筆で次のように記されています。
「鈴木商店が神鋼を約束したのは極めて匆卒(そうそつ)の間に不用意に受けたのであるから、最も慎重に取扱ふべき重工業を軽率に処理したと言ふ(そし)りを免れないで少々御恥しい話であるけれ共、(中略) 故に神戸製鋼所を引受けたのは鈴木商店の本意でも希望でもなかった。全く西紡(西宮紡績)を取りそこなって精神が空虚になって居たところへ持ち込まれたから製鋼業の至難な事も大資本を要する事も一向頓着なしでスラスラと引受けて仕舞ったものである。故に鈴木商店に於ける神鋼の引受けは先ず其の日の出来心で浮気をしたようなものであった」

koubeseikousyo2.PNG不本意ながら小林製鋼所を引き受けることとなった鈴木商店は、明治38(1905)年、同社を神戸製鋼所と改称し、直営工場として運営することになりました。金子は、当時鈴木商店樟脳製造所から大里製糖所に事務長として転出していた田宮嘉右衛門(後・神戸製鋼所第五代社長)を急遽呼び戻し、神戸製鋼所の支配人に任命し、鈴木商店から派遣された松島誠、小林製鋼所から引き継いだ小林恒四郎と小杉辰三、陸軍出身の石沢命春、海軍出身の浜嶋平吉ほか総勢41名で神戸製鋼所の歴史はスタートしました。

神戸製鋼所は、製鋼技術の未熟さによる赤字経営から脱却するため、大里製糖所の大日本製糖への売却資金(売却益400万円)の一部で設備の拡充をはかり、明治44(1901)年6月、鈴木商店から分離独立し、株式会社神戸製鋼所として再スタートを切ります。

yoriokasyousuke.PNG金子の人脈と金子に抜擢された依岡(よりおか)省輔(左の写真)の外交手腕により、株式会社神戸製鋼所の初代社長には元海軍造船少将・黒川(ゆう)(くま)を、監査役には貴族院議員となっていた元海軍少佐・吉井幸蔵を迎え、呉海軍工廠との関係強化をはかることにより経営の安定をはかろうとしました。専務取締役には依岡省輔、常務取締役には田宮嘉右衛門、もう一人の監査役には鈴木岩治郎が就任しました。

冒頭の写真は、若き日の田宮嘉右衛門(左)と金子直吉。上の写真は、明治43年頃の拡張工事中の工場(左)と創業当時の神戸製鋼所正門です。




田宮嘉右衛門、依岡省輔、吉井幸蔵については下記をご覧ください。

人物特集>田宮嘉右衛門
人物特集>依岡省輔
人物特集>吉井幸蔵

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