鈴木商店の生産事業を支えた技術者シリーズ②「辻湊の新技術・新分野への飽くなき挑戦(その2)」を ご紹介します。

2023.2.3.

tujiminato3.png鳥羽造船所は、帝国汽船鳥羽造船工場を経て大正10(1921)年2月、「鳥羽電機製作工場」を含む神戸製鋼所鳥羽造船工場となりましたが、神戸製鋼所の子会社に東京無線電機があったことから、(つじ)(みなと)はトロール船への無線電信機の標準装備を進言し、無線メーカー3社(日本、安中、東京)を説得して実現しました。

その後、辻とこの3社との間で放送事業を起こす協議がなされ、同郷の通信局長による斡旋を経て大正14(1925)年、日本放送協会(NHK)が設立されました。

大正15(1926)年、鈴木商店により下関市の彦島にアンモニア合成を目的として設立されたクロード式窒素工業は特許権を保有する会社(持株会社)となり、新たに第一窒素工業が設立され、同社に工場の運営が委ねられることとなりました。

tujiminatotokanekonaokiti.pngこの時、辻は第一窒素工業の専務取締役に就任しましたが、安定経営に向かおうとした矢先の昭和2(1927)年4月、親会社の鈴木商店が経営破綻を余儀なくされ同社はたちまちにして資金不足に陥りました。(右の写真は、金子直吉と辻湊です)

辻は住友肥料製造所(後・住友化学工業)と大日本人造肥料(後・日産化学工業)の2社と第一窒素工業の買収について交渉を開始しましたが昭和4(1929)年、結局クロード式窒素工業の株式を取得した鈴木商店のメインバンク・台湾銀行の意向により三井鉱山が同社を買収しました。

三井鉱山に引継がれたアンモニア合成技術は、その後東洋高圧工業(後・三井化学、下関三井化学)で発展し、そこで育った多くの技術者がわが国の近代化学工業・重化学工業の発展に大きく貢献するとともに近代的装置の国産化にも大いに寄与しました。

辻は鈴木商店の経営破綻後も、昭和5(1930)年には旧鈴木商店の金子三次郎鈴木正らと日本食糧を設立し、輸出向けの鮭燻製油漬缶詰の特許を取得してアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、スペイン、中南米、オーストラリア、アフリカの60余港に輸出しました。また、後に鮎川義介率いる日本産業の支配下となる朝鮮油脂の経営にも参加し工場の建設を担当するなど、辻の新技術・新分野への挑戦意欲が衰えることはありませんでした。

tqaiyousanngyouhaborosyuttyoujyo・haborotetudousouritujimusyo.jpg第一次世界大戦以後航空機の発達が著しいにもかかわらず、わが国は航空用ガソリンを専ら外国に仰いでいた状況に鑑み、国内資源による航空油確保の必要性を痛感し研究を続けていた辻は、適質な石炭が北海道・羽幌に産出することに着目し、石炭液化事業を金子直吉に進言して羽幌炭砿鉄道の発起人となり、さらに同鉄道の設立準備委員長に就任しました。(左の写真は昭和14年頃の太陽産業羽幌出張所・羽幌鉄道創立事務所です)

そんな最中、陸軍において満州国・奉天で石炭液化工場建設の計画があり、その方面での実績があった神戸製鋼所に協力要請があったことから、辻は昭和14(1939)年に満州国と神戸製鋼所の出資により設立された満州石炭液化研究所の経営を任され、神戸製鋼所から代表(社長)として渡満しました。

tikubetutannkounohoppaa.jpgこのため、辻は羽幌炭砿鉄道の社長に同じ京都帝国大学卒で知友の岡新六を推薦しました。(右の写真は羽幌炭砿の主力坑・築別炭砿の巨大な貯炭場(ホッパー)跡です)

満州石炭液化研究所の工場・設備が完成したのは昭和19(1944)年末と遅れましたが、高オクタン価の優秀な航空油を満州国専売局を経て関東軍に納入しました。

しかし、本格的生産に入った直後に終戦となり、設備は全てソ連に接収され、辻は奉天で敗戦国の苦杯を喫し昭和21(1946)年8月、一荷の包みと1,000円のみを持って内地に引き揚げました。

辻は昭和33(1958)年5月に帰らぬ人となりましたが、神戸製鋼所初代支配人(第5代社長)田宮嘉右衛門は弔辞の中で次のように語っています。「各種の事業に対して理想を以て粉骨砕身しかも身を持する事質素しっそ恬淡てんたんにして常に新事業に打ち込むに情熱を以てする事に人生の総てを捧げられたるその人格と識見に対し、重ねて深く敬意を表して已まぬ次第であります」

また、辻の長男・賢一氏は湊の死後に発見された自伝(昭和31年初夏執筆)を発行するに当たり、"あとがき" の中で次のように語っています。「父は事業に一生を捧げ尽した。事業が唯一の道楽であり楽しみであった」

過酷と思われる数々の事業の遂行も、事業家的手腕に天賦の才があった辻湊にとっては決して苦痛ではなく、むしろ道楽であり楽しみだったのです。

鈴木商店の生産事業を支えた技術者シリーズ③「鳥羽造船所電機工場の育ての親・小田嶋修三(その1)」をご紹介します。

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