高畑ちよ

鈴木商店の大躍進から日商の発展に至る高畑誠一の活躍を常にサポート

高畑ちよ

生年 明治34(1901)年8月31日
没年 平成9(1997)年 

神戸に、二代目鈴木岩治郎(鈴木商店の創業者・鈴木岩治郎と妻・よねの長男)の長女として出生。よねの初孫として溺愛されて育ったという。兵庫県立第一高女を卒業し、エラリー・クイーンの小説を原書で読みこなすなど才知に恵まれていた。

大正11(1922)年の秋、20歳のとき鈴木商店で将来を嘱望されていた34歳のロンドン支店長・高畑誠一と結婚する。

当時鈴木商店ロンドン支店の一室を借りて公私に渡り世話になり、高畑にゾッコンほれ込んだ松方幸次郎(川崎造船所社長)は高畑を女婿に迎えようと鈴木家に伺いをたてるが鈴木側は「とんでもない。高畑こそうちの後継者」と断り、鈴木商店の大番頭・金子直吉は急ぎ高畑にちよとの縁談を勧めた。

鈴木家は姉妹2人で男子がいなかったため、最初高畑は鈴木家の養子にと望まれた。しかし、高畑は一人息子だったので断りを入れたところ、その後「養子でなくてもいい」ということになり、話がまとまったという。「鈴木商店は鈴木家のもの」という考えが強い金子は、高畑のロンドン支店での仕事ぶりや実績を高く評価し、高畑を自分の後継者にするとともに鈴木家の経営を委せたいと考えていたことが窺える。

二人の結婚はお互い写真を見ただけで決まり、結婚式も日本に帰国することなくパリのホテルで行われた。媒酌人は、高畑が尊敬する母校・神戸高商の水島銕也(てつや)校長の代理として日沙商会の支配人・西川玉之助夫妻が務めた。出席者はちよの父・二代目鈴木岩治郎ほか、5、6名のごく内輪の者だけであった。

二人の新居は、高畑が大正7(1918)年にロンドンの北のはずれ、ハムステッド・ヒースの近くに支店長用の社宅として買い上げて住んでいたところであった。食道楽を自認する高畑はこの社宅に腕自慢の日本人の料理人を置いて、日本からの取引先やイギリスの知人・友人、ロンドン支店の社員らを招いてもてなすのが習慣になっていた。

料理はどこにも負けず好評であったにもかかわらず、独身時代にはホステス役がいなかった高畑であったが、結婚後はちよが無邪気なホステスぶりを発揮し、一気に名誉を挽回することができた。ちよは、その判断のよさとシンの強さで難しい裏方の役目をテキパキとこなした。

大正15(1926)年2月、高畑は15年間におよぶロンドンでの勤務に終止符を打ち、ちよとともに帰国の途につくが、大戦終結に伴う反動不況の影響をまともに受けた鈴木商店の経営は、すでに悪化の一途をたどっており、高畑、永井幸太郎ら幹部社員による経営改善策の策定もむなしく昭和2(1927)年4月、鈴木商店は経営破綻を余儀なくされる。

昭和3(1928)年2月8日、高畑誠一、永井幸太郎を中心に鈴木商店の残党40人により新会社「日商」が設立され、高畑は永井とともに常務取締役に就任し陣頭指揮をとった。高畑は昭和20(1945)に会長に就任以後もそれまでに培った人脈をフルに生かし、日商の業容拡大に多大な貢献を果たした。

鈴木商店の大躍進から日商の発展に至るまでの高畑の活躍にはまさに目を見張るものがあるが、その陰には常に妻・ちよの献身的なサポートがあったことは想像に難くない。

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