神戸製鋼所設立の歴史④

大里製糖所の売却資金で、神戸製鋼所の設備を増強

海軍からの受注以外に神戸製鋼所の苦難から救ったのは、設備投資である。田宮は、赴任当初から5トン炉一基、10トンクレーン一台だけでは、非効率であることを認識し、10トン炉一基、15トンクレーン1台の増設が必要と考えていたが、この費用は55万円と巨額で、赤字経営の神戸製鋼所には大きすぎる設備投資だった。

ちょうどその頃、鈴木商店の大里製糖所が投資額の三倍の価格650万円で売却され、この朗報を聞いた田宮は、早速金子直吉を訪問し、神戸製鋼所への投資を依頼した。そして金子は顔色一つ変えずに快諾した。

これを機に神戸製鋼所の業績は好転し、そして受注の品種も砲架、ポータブルプレーナー、ラダーストック、シャフトブラケット、インナーチューブと範囲が拡大されていった。

こうして神戸製鋼所は、明治44(1911)年に鈴木商店から分離し、株式会社として独立発足することになった。資本金は、鈴木商店が小林製鋼所から買収した際の55万円、大里製糖所売却代金から設備増強に投入した55万円を振替してスタートした。 取締役社長には海軍造船少将黒川勇熊を招き、専務取締役に依岡省輔、常務取締役に田宮嘉右衛門、監査役に吉井幸蔵、鈴木岩治郎が就任した。

神戸製鋼の社章は、大里製糖所で販売された砂糖の商標を継承している。その商標は、菱形の中にSを入れたマークで、鈴木よねを意味するものである。(菱形=米=よね、Sは鈴木)神戸製鋼所が大里製糖所の躍進に続くことを期待して採用されたといわれている。

神戸製鋼所が独立した明治44年には、京都大学理工学部卒業の浅田長平が入社した。兼ねてから田宮は学卒の優秀な人材を求めていたが、赤字続きの工場では採用は難しく、故に大学の教授に推薦を求めた。京都大学の斎藤大吉博士は、「神戸製鋼所は官営の八幡製鉄所とは規模の上では比較にならない。民間鉄鋼業の将来性、それに鈴木商店のバック、金子の人物、才能、手腕、田宮の堅実で周到な経営によって神戸製鋼所の発展は間違いない」と浅田に勧めたという。

その頃海軍からの受注は多種多様になり、それまでの鋳鋼品から大型の鍛鋼品の需要が増加していることを受け、鍛鋼品の設備として3トンスチームハンマーでは効率が悪く、田宮は一気に1,200トンプレスの導入を計画した。但し約15万円に及ぶ巨額の投資であったが、金子に「これだけはやらせてください。これが成功しなければ工場を閉められてもいたし方がありません」と進言、金子は了承した。

大正2(1913)年、田宮はシベリア経由で英国に出張に出かけた。ロンドンでは鈴木商店ロンドン支店長の高畑誠一がアテンドした。田宮はイギリスの製鋼工場を回り、当時の日本は鋳造品が大部分であったのに対して、イギリスではどの工場でも鍛造設備が7割を占め、かつ船舶のシャフト類向けであることに自信を深めた。今後日本の船舶が大型化するためにも、1200トンプレスの導入が不可欠であり、田宮はデビーブラザーズ社に1,200トンプレスを発注した。

日本に1200トンプレスが設置され稼働し始めた大正3(1914)年、第一次世界大戦が勃発。日本には大量の船舶の注文が転がりこび、神戸製鋼所にもクランクシャフト、イカリ等の注文が殺到。1200トンプレスはフル稼働し、注文が裁き切れない状況が続いた。

  • 黒川勇熊(初代社長)
  • 大正2年田宮イギリスにて(左上・高畑、右下田宮)

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