神戸製鋼所設立の歴史⑤

機械メーカーとしての道、そして第一次世界大戦による飛躍

大正3(1914)年頃から神戸製鋼所は機械メーカーとしての道を歩み始める。海軍からの要請で、魚形水雷の発射動力として空気圧縮機と造船用の蒸気機関の開発も行う。神戸製鋼所は、これらの高度な技術開発のために呉海軍工廠から造機の権威として知られた松田萬太郎を技師長として迎えた。田宮の意向を受けた依岡省輔が海軍と交渉して実現したものである。

また、神戸製鋼所は、鈴木商店の多角化に応じることでも発展した。大正5(1916)年には、金子直吉は播磨磨造船所を買収した。播磨造船所では船体だけを建造し、主機および汽関は神戸製鋼所から供給された。

金子は、「わが国ではすでに軍艦、商船などかなりのものが出来るようになったが、陸上の産業機械はほとんどが高価な外国品を輸入している。これでは今後の日本の産業は発展しない」とし、また田宮も「海軍の要請に応じるだけでなく、産業機械の向上を図らなければならない」と考えていた。そこで取り組んだのが、製糖機械である。鈴木商店は台湾において北港製糖を建設する際に、イギリス・ドイツの製糖プラントを輸入。田宮は同製糖機械の破片を取り寄せ、神戸製鋼所で試作させ甘しょ圧搾機の製作器が開始された。

鈴木商店は、大正4(1915)年に帝政ロシア政府の内命を受けたブリーネル商会との間に三インチ弾500万発の製作を受注。弾丸材料の亜鉛、鉛、銅、錫などはどの国も輸出禁止であったが、鉛はロシアから、銅は中国から調達できる目途が立った。この契約履行のために同年、岡山県日比にある銅の精錬所を買収。この精錬所には浅田長平を主任として抜擢。さらに亜鉛・アンチモ二ー・鉛・銅の精錬のため下関・彦島に直営の製錬所を建設。翌大正5(1916)年、これらを発展させて日本金属を設立し、日比製錬所、彦島製錬所として本格的に非鉄金属の製錬事業に進出した。

その後、帝政ロシアは崩壊し、契約は解消され、幸いにして調達した材料は国内で裁けたが、その後の事業展開に関して金子、田宮は協議。当時艦船主汽機および産業機械の国産化が盛んで、真鍮管の需要が伸びており地金で販売するよりも一歩進めて加工販売することを計画し、大正6(1917)年に門司に伸銅工場を設立した。工場用地は、鈴木商店がすでに大里製糖所、大里製粉所の設立で大成功を収めていた北九州・大里地区が選ばれた。

第一次大戦が勃発により、更なる生産の増大に対応するためには、工場の敷地の拡張が必要であった。大正3(1914)年、金子の盟友松方幸次郎が率いる川崎造船所と共同で脇浜地区の海面埋め立てを申請した。そしてこの工事の資金調達のために大正6(1917)年には資本金を500万円に、大正7(1918)年には1,000万円に増資した。

大正7(1918)年、金子は松方幸次郎らと尽力して船鉄交換条約を成立させる。そして米国から輸入された鉄くずの一部は、この脇浜埋立地に荷揚げされた。また同年、鈴木商店本店は米騒動により焼き討ちされ、その灰や瓦や石ころが脇浜埋立地に投げ入れられた。その中にはまだ火の粉があったという。

  • 初期の空気圧縮機
  • 門司伸銅工場(大正10年発行“営業案内”より)
  • 海岸工場の建設

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