太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)の歴史④

太陽産業の解散と太陽鉱工の設立による再出発

昭和19(1944)年2月27日、太陽曹達(後・太陽産業)において鈴木商店再興の夢を追い続けていた金子直吉が77年の人生の幕を閉じ、旅立った。金子は古希を過ぎても持ち前の事業意欲は尽きることがなかったが昭和18(1943)年夏に東京で風邪をひき、神戸・御影の自宅に戻って養生したが、体調を崩して病床についたまま回復することはなかった。

昭和20(1945)年8月、第二次世界大戦が終結し、戦時中には常軌を超えて生産の増強を要請されたモリブデンの需要は一挙に皆無となり昭和21(1946)年2月、大川目(おおかわめ)鉱業は整理され、大東(だいとう)鉱山と赤穂製鉄工場は再び太陽産業に移管された。昭和21(1946)年1月、大東鉱山は生産を再開するが、同年10月の労働争議と需要皆無のため休山を余儀なくされた。

このため、本社から各事業所には「何としてでも自活せよ。在庫や設備を売却してはならぬ」との指令が出された。赤穂製鉄工場では製塩用の(わら)(なわ)()いなどの慣れない作業で急場を(しの)いだり、本社社員は松脂(まつやに)、電球などの商売を始め、ヤシ油で石鹸を造るなどして収入を得るといった苦境を強いられた。

仙台チタン工場も、終戦とともにフェロチタンの生産を中止し、商工省の指示を受けて昭和23(1948)年1月に扶桑(ふそう)金属工業(後・住友金属工業、現・日本製鉄)の要請によりフェロチタンの生産を再開するまでは、純鉄鋳物の生産によって戦後の混乱期を(しの)いだ。

終戦後、戦地から復員してきた元社員らは一時神戸市灘区下河原町に移転していた本社を尋ねてきたが、このような状況では与える仕事があろうはずもなく、その多くは国元へ引き揚げざるを得なかった。太陽産業が整理され、太陽鉱工が設立されたのはそのような苦難の時代であった。

戦後わが国の復興は、戦争によって著しく落ち込んだ工業生産の建て直しを中心に進められた。特に工業の基幹部門である鉄鋼業界と石炭業界は、国策「傾斜配分方式」の決定や復興金融公庫の重点的融資などにより逸早く立ち直りを見せた。

一方で、GHQ(連合国総司令部)の方針によって財閥解体、経済民主化の措置が進められた。昭和21(1946)年には持ち株会社整理委員会が発足し財閥解体・持ち株会社解散が実行され、太陽産業も昭和22(1947)年に制定された独占禁止法によって直営会社・関係会社を中心とする保有株式のすべてを処分し、解散することとなった。

同時に、昭和21(1946)年に制定された企業再建整備法に基づいて第二会社を設立するため、「再建整備計画」が立てられ、高畑誠一、橋本隆正の指導の下で横田周作経理課長(後・日輪ゴム工業社長)の手によって「再建整備計画認可申請書」がまとめられた。

昭和24(1949)年3月14日、太陽産業(神戸市灘区下河原通1丁目3番地)において鈴木岩蔵が議長となり、「太陽鉱工株式会社」の創立総会が開催された。再建整備計画に基づき、唯一の株主である太陽産業から3事業所(大東鉱山、赤穂製鉄工場、仙台チタン工場)の事業資産が現物出資され、太陽鉱工は帳簿価格275万円を資本金として再出発することとなった。役員は次のとおり選任された。

取締役会長 鈴木岩蔵、取締役社長 高畑誠一、常務取締役 橋本隆正、監査役 柳田義一、金子文蔵

太陽鉱工は同年3月31日に設立登記がなされ、この日が同社の創立記念日とされている。「太陽鉱工」の社名は、太陽産業から「太陽」の2字を受け継ぎ、今後の事業の柱となる「鉱業」と「工業」の頭文字を組み合わせるという高畑社長の発案に鈴木会長、橋本常務が賛同し、決定したものである。

英文の社名も、高畑社長の「これからの時代はインダストリーである」との指摘により「THE Sun Mining & Manufacturing Co.,Ltd」から最終的には「THE Sun Mining & Industrial Co.,Ltd」に修正され決定した。ちなみに、現在の太陽鉱工の英文の社名は「TAIYO KOKO CO.,LTD.」である。

太陽鉱工は創立後もモリブデンの需要は依然皆無の状態が続いた。折しも政府は国内に余っている軍需品などの不用物資の輸出奨励に乗り出し、モリブデンなどは真っ先に輸出の対象となり、同社にもアメリカからメタルトレーダーが来訪した。

逼迫した資金面からすれば、同社は手持ちのモリブデンを売却したいのは山々であったが、高畑社長から経営を一任されていた橋本常務は、これからの日本の復興・発展には鉄鋼が不可欠となり、鉄鋼生産に使用されるモリブデンが必要とされる日が必ず到来するとの判断の下、1トンたりとも売却することはなかった。

太陽鉱工の子会社であり窯業用無機顔料、希土類(レアアース)、ジルコニウム(*)を主要製品とする日本金属化学も昭和23(1948)年に企業再建整備法の適用受け翌昭和24(1949)年3月10日、新たに「新日本金属化学」として再出発した。しかし、同社の経営は不安定で、太陽鉱工の援助を受けながら経営を続けていた。

(*)ジルコニウムは元素記号Zr、原子番号40。ジルコニウム鉱石はジルコン、バッデリ石などであるが、今日ではオーストラリアの海岸で産出するジルコンサンドが原材料として使用される。耐食性、熱伝導性、加工性に優れ、熱中性子の吸収断面積が金属中最小の希少金属(レアメタル)。ジルコニウムは熱交換器・硫酸製造設備・溶解槽・反応槽・蒸留塔・タンク、セラミック電子材料・圧電素子・基盤・半導体・電極・絶縁体などの電子材料、ニユーガラス・研磨剤・化粧品(UVファンデーション)などに使用される。

太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)の歴史⑤

  • 晩年の金子直吉
  • 太陽鉱工の初代会長 鈴木岩蔵
  • 創業時の太陽鉱工本社事務所(日輪館)

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