太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)の歴史⑤

大東鉱山、赤穂製鉄工場(後・赤穂工場)の生産再開と特殊合金鉄分野への進出

第二次世界大戦終結後、モリブデンの需要が皆無の状態が続く中、太陽鉱工の橋本隆正常務は、近い将来鉄鋼生産が回復しモリブデンが必要とされる日が必ず到来するとの見通しを堅持し、手持ちの在庫を売却することなくその日を待ち望んでいたが昭和25(1950)年以降、橋本の読み通りモリブデンの需要は急速に回復していった。

当時日本国内におけるモリブデンの在庫はすでに払底しており、相場は急速に上昇し始める。昭和25(1950)年1月にはトン当たり10万円前後であった価格が、朝鮮戦争が勃発した同年6月には30万円に急上昇し、その後の膨大な鉄鋼特需の中でさらに高騰を続け、翌昭和26(1951)年7月には80万円になった。1年余りで実に8倍もの急騰であった。

同社は手持ちのモリブデン精鉱19トンを有利に売却できたことから、逸早く大東(だいとう)鉱山(島根県大原郡大東町、現・島根県雲南市)、赤穂製鉄工場の生産再開に踏み切ることができた。昭和25(1950)年10月1日、大東鉱山は谷治之助鉱山長の下で生産を開始した。さらに昭和26(1951)年1月、念願の赤穂製鉄工場焙焼炉再開の火入れ式が行われ、翌2月からは大東鉱山から運ばれた硫化モリブデンの焙焼が始まり、三酸化モリブデンの製造が再開された。昭和26(1951)年10月、赤穂製鉄工場は「赤穂工場」に改称された。

大東鉱山、赤穂製鉄工場の生産が(しょ)()いた昭和26(1951)年4月4日、同社会長の鈴木岩蔵が病気のため死去した。享年67歳であった。同年4月16日、定時株主総会において故会長の長男、鈴木治雄が取締役に、同年9月20日には橋本常務が代表取締役に就任した。また、同年11月3日には本社をクレセントビル(神戸市生田区京町72番地)へ移転した。

朝鮮戦争による特需ブームも昭和26(1951)年7月に休戦会議が開催され、戦乱が終結に向かうと同時に、景気は急速に下降に転じた。モリブデンも例外ではなく、一転して同社は販売不振に陥り、金融難に直面する。しかし、東京が販売活動の中心になることを見越した橋本常務は、東京での営業活動を本格化させることにより東京芝浦電気(現・東芝)や日本鋼管(現・JFEスチール)との販売契約の締結を実現するなど、次第に販路を拡大し危機を乗り越えていった。  

昭和26(1951)年4月1日、モリブデン鉱が法人税法上の重要物産に指定され、同鉱の製造・採掘事業から生ずる利益について免税の特典を大いに享受することとなった。また、昭和27(1952)年4月1日から「新鉱床探査補助金交付制度」が新設されるなど、重要金属鉱山に対する保護育成策が充実していった。

これらの諸施策の実施を受け大東鉱山は昭和27(1952)年9月、増産のネックとなっていた選鉱場を大幅に拡張するとともに設備の増強を進めることにより順調に生産量を伸ばし、わが国最大のモリブデン鉱山へと成長していった。

当時の太陽鉱工の主力工場は仙台チタン工場(昭和28年4月に「仙台工場」に改称)であった。同工場は昭和23(1948)年1月よりフェロチタンの生産を再開し、創業期の同社の経営を支えるとともに、昭和25(1950)年からは漸次需要が増え、順調に生産を伸ばしていった。

当時のフェロチタンの用途は、ステンレスのほか高級ラジオなどに使用されるネオKS鋼用などが主なものであった。また、仙台チタン工場では、東北大学金属材料研究所の今井雄之(ゆうの)(しん)教授(*1)の指導の下で昭和26(1951)年12月よりフェロボロン(*2)の生産を開始し、次いで昭和27(1952)年7月からはフェロチタンボロンの生産を開始した。

(*1) 工学博士(東北大学)で、鉄鋼材料の権威。平成4(1992)年文化功労者。

(*2)ボロンは元素記号B 原子番号5。天然には硼砂(ほうしゃ)などの化合物として産する。フェロボロンは合金鉄(フェロアロイ)の一種で鉄とボロンの合金。当時不足気味の高価なフェロモリブデン、フェロニッケル、フェロバナジウム、フェロタングステンに代わるものとして多くの鉄鋼メーカーに採用されたが、添加量が極めて微量であることから添加操作技術が非常に難しかったことに加え、生産コスト面でも問題があり、販売が軌道に乗るまでには長い年月を要した。

当時、モリブデン鉱石は政府の「緊急特別会計輸入制度」(昭和25年11月実施)の対象品目とされていたこと、仙台チタン工場がテルミット法(*)による低炭素フェロモリブデンの生産が可能であったことから、この制度の適用を受け、同社は政府手持ちのモリブデン鉱石の払い下げを受けてフェロモリブデンの生産に乗り出すことを目指した。

(*)金属酸化物とアルミニウム粉末の混合物に点火した時のアルミニウムの酸化反応による高温を利用し、金属酸化物を還元する冶金法。

この頃太陽鉱工は、当局にモリブデン鉱山業者としては認められていたが、フェロモリブデン製造業者としては認められていなかったため交渉は難航したが昭和27(1952)年11月、通産省の認可を得る。こうして、同社は粟村鉱業所(現・日本新金属)、東芝電興(現・クアーズテック)、日本鋼管(現・JFEスチール)に次いでわが国4番目のフェロモリブデンメーカーとなった。昭和27(1952)年12月、仙台チタン工場のテルミット炉は3トンのフェロモリブデンを生産したが、これが、わが国初の低炭素フェロモリブデンであった。

昭和28(1953)年4月1日、それまでの政府によるモリブデン鉱石の輸入は廃止され、民間業者への外貨割当による輸入制度・FA制(Fund Allocation System)が発足する。同社はこの制度実施後も国内鉱山の開発促進、国内鉱山の保護育成はかるべく当局に働きかけを続けた。この結果、昭和30(1955)年には国産鉱が輸入鉱を上回るようになり、大東鉱山のモリブデン生産も順調に伸長していった。

バナジウム(*)もまたモリブデン同様、高張力鋼(ハイテン鋼)、工具鋼など鉄鋼用の需要が高まってきていたが、当時わが国における生産は日本電気冶金(現・新日本電工)ただ1社であり、不足分は輸入に頼らざるを得ない状況であった。そのような中、仙台工場(仙台チタン工場の後身)では昭和29(1954)年1月、フェロモリブデンに続きフェロバナジウムの生産を開始した。

(*)バナジウムは元素記号V 原子番号23。バナジウム鉱石は含バナジウム・チタン磁鉄鉱(マグネタイト)や含バナジウム・チタン鉱石(カルノタイト)などである。高張力鋼(ハイテン鋼)、工具鋼、高速度鋼、構造用合金鋼などの特殊鋼や強力チタン合金などに添加され、鋼の引張り強度、衝撃値、繰り返し応力等の機械的性質や熱的性質(耐熱性)を著しく向上させる希少金属(レアメタル)。バナジウムは高層ビルの構造材・パイプライン・タンク・橋梁・船舶、ドリルなどの切削工具、スパナ・レンチなどの機械工具、顔料・印刷インク・試薬などの化学用添加剤などに使用される。また、モリブデンとともに石油精製時の脱硫(硫黄分・硫黄化合物を除去する)触媒としても利用される。フェロバナジウムは合金鉄(フェロアロイ)の一種で鉄とバナジウムの合金。

昭和29(1954)年は不況の年でもあり、しばらくは先行きが危ぶまれたが、同年末頃より造船業界からの受注が好転し、仙台工場におけるフェロバナジウムの生産も軌道に乗り始めた。やがて同社の主力製品となるフェロモリブデン、フェロバナジウムなどを中心とする生産体制、営業体制の基礎はこの時期に築かれたのである。

太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)の歴史⑥

  • 橋本隆正
  • 昭和20年代後半の大東鉱山 

    選鉱場・沈殿池(左)、乾燥室(中央)、手選場(右)、 事務所(右後方)

  • 昭和20年代後半の大東鉱山

    本坑(1号坑)入口

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