日本工具製作(現・日工)の歴史①

鈴木商店本店工事部の関係者により「日本工具製作株式会社」が設立される

大正7(1918)年7月23日、米価高騰に苦しんでいた富山県魚津町(現・魚津市)の漁師の主婦らが十二銀行の米倉庫前に押しかけ、米の県外への移出阻止を求めた。これを機に、いわゆる"米騒動"が急速に全国各地に波及していった。

神戸でも鈴木商店などが米の買占めを噂され、さらにマスコミにより同社が米価を高騰させた元凶と盛んに報道されたことから大正7(1918)年8月12日の夜、まったくの誤解により神戸市東川崎町1丁目(現・中央区栄町通7丁目)の鈴木商店本店(旧・みかどホテル新館)は焼き打ちに遭い、灰塵と化した。いわゆる鈴木商店焼き打ち事件である。

当時、政府の要請を受けて外米輸入指定商となった鈴木商店は、国のために利益を度外視して米価の安定に向けて外米(ラングーン米、サイゴン米、朝鮮米)を積極的に輸入していたにもかかわらず、風説と流言が乱舞する中、高騰する米価によって頂点に達していた民衆の怒りが爆発し、本店社屋を焼失するという悲劇に遭遇したものであった。

鈴木商店は、大正3(1914)年7月の欧州における第一次世界大戦勃発に伴う商品価格の高騰を見越した大番頭・金子直吉が、ロンドン支店の高畑誠一に「鉄と名の付くあらゆる商品」に対する一斉買いを指示すると、裁量の一切を任された高畑は鉄鋼、船舶、食料を始めとするあらゆる商品を買い進めることにより莫大な利益を上げた。

鈴木商店は、大正6(1917)年には貿易年商が三井物産を上回るなど旭日の勢いで急成長を続けており、当時その一挙一投足は全国の耳目を引き付けていた。

鈴木商店本店の焼け跡は、余燼(よじん)のおさまらぬ内に同社の本店工事部が応急復興工事に着手し、昼夜兼行およそ2週間でバラック建の仮普請ながら、木造スレート葺平屋建の巨大な本店社屋が完成した。

当時の鈴木商店は、硬化油工場として兵庫、保土ヶ谷、王子の各工場を、大豆油製造工場として清水、鳴尾(兵庫県)、横浜の各工場を建設し、下関の彦島には鉛・銅の精錬のため直営製錬所(後・日本金属彦島精錬所)を建設するなど積極的に製造業へ進出していた。

これを反映して、鈴木商店に関係する事業の工事を統括する部署である本店工事部の部員はこれら工事の監督に東奔西走していた。本店工事部が監督していた鈴木商店関連の工場はいずれも竣工を待たずに生産を開始し、設立された会社は日浅くして次々に好成績をあげていった。

鈴木商店本店工事部の部長は後に日本工具製作(現・日工)の第二代社長となる、工学博士でその道の権威でもあった吉本亀三郎、同部の次長は後に同社の創立委員長となる土屋新兵衛であった。

古参社員の土屋は大番頭・金子直吉の信任も厚く剛腹な手腕家で、個人的にはさまざまな事業や会社に関係していた。土屋は下関の関門窯業(煉瓦工場)や日本柱管(コンクリート柱工場)などの会社を設立し、設立した会社はいずれも順調に成長していた。

後に日本工具製作の初代代表取締役専務となる奥田良三は同部の会計課長、また、後に同社の第二代代表取締役専務、さらに第三代社長となる矢野松三郎は同部の用度課長であった。

第一次世界大戦勃発により未曾有の大戦景気に沸いたわが国経済は、鈴木商店焼き打ち事件から3カ月後の大正7(1918)年11月にドイツが降伏し大戦が終結した後も、翌大正8(1919)年頃までは欧州の戦後復興などで需要が伸び、これに投機市場の思惑も絡んで大戦中を上回るほどの活況を呈した。いわゆる「大正バブル」の発生である。

この活況を好機と見た土屋は、日頃から信頼していた奥田と矢野を各地に派遣し、新規事業立ち上げの調査に当たらせた。その結果、土農工具(ショベル、スコップ、ツルハシ等)の製造が前途有望であるとの確信を得た土屋は工具製造会社設立の計画書を作成し、吉本に相談し新会社の設立を実行に移すことを決定するとともに、吉本に社長としての出馬を要請した。

この話を受けた鈴木商店の土木工事の総監督的立場にあった吉本は、土木工事が年々盛んになり工具類の不足を実際に体験していたところでもあり、新会社の設立に全面的な協力を約束した。

土屋新兵衛が工具製造会社の創立委員長となり新会社の設立に着手したのは、前記の通り大戦景気が衰えていなかった時期であったため、誰もが会社を興せば儲かる、新会社に投資すれば利益があがるという考えに支配されていたためであろう、発起人の引き受けも株式募集も支障なく順調に進んだ。

大正8(1919)年6月15日、土屋が創立委員長および発起人代表となり新会社の発起人会が開催され、定款その他が決定し、会社設立の手はずが整った。新会社は鈴木商店が直接関与することもなく、同社から出資を受けることもなかったが、土屋のほか13名の発起人は次の通りいずれも鈴木商店の幹部と縁故者であった。

土屋新兵衛(発起人代表、鈴木商店本店工事部次長)、吉本亀三郎(鈴木商店本店工事部部長)、谷治之助(鈴木商店重役)、松本褒一(鈴木商店部長)、阪根武兵衛(真鍮商社社長、鈴木商店取引先)、真島福松(金属品問屋社長)、湯川忠三郎(内外物産社長)、斎藤藤四郎(商事会社社長)、森田葆光(旧鈴木商店重役)、桝谷音三(鉄材問屋社長)、隅田伊賀彦(帝国麦酒社長)、片岡誠一(商店主、奥田良三の友人)、浜口勇吉(浜口組社長)、奥田良三(鈴木商店本店工事部会計課長)

同年8月3日、吉本亀三郎が議長に就いて創立総会が開催され、役員選任は議長に一任された。吉本は取締役に次の4名を指名し、総会後の取締役会では社長は置かず、互選により奥田良三が代表取締役専務に就任した。

取締役 斎藤藤四郎、桝谷音三、浜口勇吉、奥田良三、監査役 真島福松、松阪根武兵衛、(つじ)(たい)(じょう)、関谷福太郎

この役員の指名で奇異に思われたのは、当初社長に予定されていた吉本亀三郎の名前がなかったこと、また創立委員長として奔走していた土屋新兵衛の名前も出なかったことである。これは、二人とも鈴木商店の要職にあり、高給を食んでいる者が私的に会社を経営するのは慎まなければならないと唱える者があったことから、突然役員就任を見合わせることになったためであった。ただし、総会の席上二人は相談役に推薦されると、側面より新会社の発展に尽くすことを約束した。

奥田は直ちに鈴木商店本店工事部会計課長の職を辞任し吉本、土屋両相談役の補佐・指導の下で新会社の経営に専念することになったが、それは予てからの奥田の希望であり予定の行動でもあった。

新会社名は「日本工具製作株式会社」に、資本金は50万円、4分の1払込と決定され、本社は創立事務所をそのまま引き継ぐ形で神戸市栄町通二丁目49番地に置かれた。株式の募集については500株以上の引受人が6名も登場し、プレミアさえつく好調さで瞬く間に満株(まんかぶ)になった。

当初の株主は76名で、その多くは鈴木商店の役員・幹部、鈴木商店の関係会社や取引先が占めており、分社化に近い形での船出であった。なお、会社名は単的に会社の事業内容をそのまま表したものであった。

鈴木商店本店が焼失してちょうど1年後の大正8(1919)年8月13日に新会社の設立登記が完了したが、この日が現在の「日工株式会社」の創立記念日とされている。

このように、日本工具製作は幸先良いスタートを切ったが、その後長期にわたる第一次世界大戦後の反動不況、昭和金融恐慌、アメリカ発の世界恐慌、太平洋戦争などの荒波が次々に同社に襲いかかるとは誰も想像さえしていなかった。

日本工具製作(現・日工)の歴史②

  • 焼き打ち事件後、本店工事部により逸早く再建された鈴木商店の本店社屋
  • 創立総会議事録
  • 日本工具製作株式会社 50円株券

TOP