日本工具製作(現・日工)の歴史②

矢野松三郎が専務に就任直後、大戦終結に伴う反動不況に見舞われる

日本工具製作の創立後に何よりも急がれたのは新工場の建設であり、続いて製品を一日も早く生産することであった。相談役の土屋新兵衛は鈴木商店の仕事の関係で下関に滞在していることが多く、同じく相談役の吉本亀三郎も鈴木商店の本職が繁忙で新会社に関与することができず、専務の奥田良三は独り工場敷地の選定・買収・建設に席の温まる間もなく全力を傾注した。

その結果、敷地は兵庫県明石郡明石町王子(現・明石市王子)の約1,000坪に決定したが、工場(第一工場)の建設は諸事情により大幅に遅れ、大正9(1920)年1月にほぼ竣工を見た。同社は、その後長くこの地に本社ならびに第一工場を置くことになる。

ところが前年の12月、奥田は「スペイン風邪」(今で言う「インフルエンザ」。全世界で4,000万人、わが国では38万人が亡くなったともいわれている)に罹ってしまう。当時は関西でもスペイン風邪で亡くなる人が多く、神戸の夢野火葬場では火葬が追いつかず、死体の棺桶がうず高く積まれたという。

奥田は病床で工場建設の様子を気にかけつつ療養に努めていたが、年を越えて急に病状が悪化し、専務就任わずか5か月後の大正9(1920)年1月4日、新工場の落成を見ることなく忽然(こつぜん)として亡くなってしまう。

同年1月8日、同社初の物故者となった奥田の葬儀が神戸市内の()林寺(りんじ)で社葬として執り行われた。奥田は神戸に出生。弟の喜久司は日支事変において自爆して名を知られた陸軍大佐で、兄弟ともに情熱の人であった。

奥田の突然の死去を受け、相談役の土屋は後任にかつて鈴木商店本店工事部用度課長であった矢野松三郎を推薦した。矢野は前記の通り奥田とともに新会社設立に際して新規事業の調査に当たっていたが大正8(1919)年6月、会社創立に先立ち鈴木商店傘下の日本金属大里製錬所の経理部長へ転任しており、創業後の会社の経営については関与していなかった。

矢野松三郎は明治26(1893)年に愛媛県大洲(おおず)町に出生し、17歳の時鈴木商店に入社。その後鈴木商店傘下の日本金属彦島製錬所用度課主任を経て鈴木商店本店工事部用度課長となり、さらに抜擢されて日本金属大里製錬所経理部長の要職に就いた。

矢野は並々ならぬ努力家で、手がけた仕事は必ずやり通すという信念と熱意の持ち主であり、土屋はこうした矢野の気性と手腕を高く評価して専務に推薦したものと思われる。

後に矢野は、「奥田良三の葬儀の席上、土屋、松本、宮林氏らが集まって奥田の後任について相談し、"お前やらんか" と持ちかけられた。前途未知の新会社に入ることは少しは不安であるが、自分で自分の運命を開拓するのは男子の本懐と、ようやく推薦を受けることを決心し、直ちに鈴木商店(日本金属大里精錬所)に辞表を出した。1月14日、(日本工具製作の)取締役会を開き取り敢えず浜口勇吉を一時代表者とすると共に私の入社が決定し、その旨門司へ知らせて来た。」と当時の様子を語っている。

大正9(1920)年2月1日、矢野は臨時株主総会において取締役に就任した上で、取締役会の互選で代表取締役専務に就任した。しかし、矢野は前職の残務整理等のため臨時株主総会には間に合わず。実際に着任したのは2月3日であった。

当時まだ27歳、独身であった矢野は明石市内に下宿し、歩いて通勤していたという。こうして、同社の経営はやはり社長を置かないまま若い矢野に引き継がれた。

矢野が専務就任後の議事録に押印した印章には "堅忍奮闘" の文字が刻してあった。この印章は矢野の決意の程が窺えるもので昭和16年頃まで使用され、この奇抜な印章を見た者は皆目を丸くして驚いたという。

大正9(1920)年2月15日、新工場が竣工し、機械を設置して矢野の手で製造の試運転が行われた。2月21日にはショベル5ダースを製造し、記念すべき第1号ショベルは故奥田専務の霊に捧げるべく遺族に送り届けられた。ショベルはその後も問題なく製造され同年4月1日、「トンボ印」の商標(*)を付して市場に販売された。

(*)同社が商標を「トンボ印」に決定したのは次の理由からであった。

「日本ではトンボを秋津(あきつ)と呼び親しんできたことに加えて、古くは日本の国土を指して秋津島の異名があった。また工場のある明石は東経135度の標準子午線が通過しており、人麿山月照寺の正面には銅製のトンボを止まらせた子午線の標識が建立されている。ここが日本の中央との意であり、『トンボ印』には日本を代表する工具として世界に雄飛するという大きな誇りと希望が込められた。」

創立当初、同社は製品の販売については、急成長を遂げていた鈴木商店の貿易上の販売ルートを利用して国内はもちろん、ロシア、東南アジア、インド方面への輸出により手広く販路を獲得できると考えていた。

ところが、「トンボ印」の製品が売り出されるのと時を同じくして、大戦終結後も戦時中を上回るほどの活況を呈していた日本経済は、大正9(1920)年3月の証券市場の大暴落を機に好況期が終焉を迎えると一転して恐慌ともいうべき反動不況に陥り、全国の工事は中止になったり繰り延べになり工具類の需要は激減した。

さらに、同社の輸出どころか鈴木商店自体が輸出の停滞により苦境に喘ぐ深刻な状況に陥った。新製品・ショベルの門出は、創立時の順調さとは反対に早くも苦難の道をたどることになった。

輸出が見込めない状況では、頼みとするのは国内だけであった。同社は国内の販路も鈴木商店の支店・出張所を利用する計画で製品を持ち込んで販売を依頼した。しかし、鈴木商店は依頼を受けてくれたものの、追加の注文は皆無で成果は全くあがらなかった。

同社は当初、ショベル、スコップ、ツルハシ等の工具類は構造が単純なことから、良し悪しも容易に判別できるため、優秀な製品を出せば必ず売れるものと考えていたが、これは全くの見込み違いであった。

元来、ショベルやスコップ等の工具類は常に大量の取引があるわけではないので、鈴木商店のような見本だけで大量の取引を行っている店へ、しかも見慣れないマークの付いた少量の製品を持ち込んでも成果を期待することには無理があった。加えて大戦時の需要は軍需産業の占める比重が大きく、国内市場の規模が大きくなかったことも不振の理由の一つであった。

この事態を受けて、同社は販売方法について根本的に見直した結果、各地方への直販制をとるとともに、各地に特約店を設けて販売に注力する方針に切り替えることになった。

同社が販売方法について検討を重ねている間にも景気は一段と悪化し、鉱山、工場などの閉鎖が続出し、倒産も相次いで起こった。特約店の販売も期待した通りには運ばず、売れ行き不振は増すばかりであった。

同社は売掛金の回収も困難になってきたのに加えて金融も極度に逼迫してきたので、やむなく大正9(1920)年5月29日、運転資金に充当するため第2回の株式払込を決定した。

しかし、順調に資金を調達できた創立当時と違って払込は1年経っても完了出来ず、株主の中には払込どころか利益が上がらないため解散してしまうところも出てきたため、未払込分2,000株は吉本相談役、浜口取締役、その他一部の役員が引き受けることによりようやく完了した。この時、役員の報酬も常勤の専務を除き全員が辞退することが決議された。結局、資本金50万円の全額払込が完了するまでにはその後実に18年を要することになる。

矢野松三郎は専務に就任以来この苦境を打開するため、独り販路の拡張、資金繰りなどに全力を傾注し苦闘を続けたが、局面は容易には好転しなかった。

日本工具製作(現・日工)の歴史③

  • 第一工場
  • 第1号ショベル
  • 矢野松三郎専務を中心に当時の社員

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