播磨造船所の歴史④

幾多の悪条件を従業員の熱意と努力で克服し、大型鋼船の建造を実現

播磨造船所は大正5(1916)年6月、前会社(播磨造船株式会社)から引継いだ鈴木商店発注の木造曳船「神の浦丸」(54㌧)を完成。この船が「株式会社播磨造船所」としての、建造番号第1号であった。その後も急造の仮設船台において小型船を建造していったが依然として海面埋立工事は難航し、新船台建設地付近の山腹および地盤の爆破作業が昼夜4回も行われ、岩石の破片が飛散して新船台建設の工事を進めることは不可能に近く、第2船台と第4船台の完成はかなり遅れた。

※第1船台と第3船台は大正6(1917)年後半に完成したが、第2船台と第4船台は大正9(1920)年の半ばにしてようやく完成する。

大正5(1916)年頃、わが国の鋼材生産はごくわずかで、そのうち造船用材として入手できたのは造船規格から外れる小型船用の少量に過ぎなかった。従って、造船用材の大部分は外国から輸入する必要があったが、当時イギリスでは鋼材はすでに戦時輸出禁制品となっていたので、播磨造船所は鈴木商店鉄材部を通じて何とかアメリカの鋼材を確保していた。

播磨造船所は船台建設工事の遅れおよび外注諸機械の入荷遅延のため、本格的な大型船建造開始の見通しはつかなかったが、人員の充実(工員数は大正6年7月:500名、大正6年12月:2,300名、大正7年6月:4,500名と急増)に伴い全従業員は上下一致して、いかなる困難をも克服しなくてはならぬという意欲に燃え、士気は極めて盛んであった。

そこで、納期の関係と従業員のさらなる士気高揚のため、新船の建造を敢行することとし大正6(1917)年7月1日、未完成の第1船台において、5,000重量トン型貨物船「WAR AMAZON」[第6與禰丸](船主:アルフレッド商会、3,165総㌧)を起工。この船が播磨造船所としての、大型鋼船建造の第一歩であった。「第6與禰丸」の進水式は大正7(1918)年1月12日に行われ、鈴木商店の店主・鈴木よね(二代目)鈴木岩治郎鈴木岩蔵らが参列し、船台には来賓があふれんばかりであったという。

この時、播磨造船所は10,000トン型15隻、5,000トン型6隻、2,000~3,000トン型10隻、合計31隻200,000重量トンの大型鋼船建造計画を発表し、全従業員の奮起を促した。なお、金子直吉はこの建造計画に、元々金子の持論であり当時川崎造船所社長・松方幸次郎が採用していた、見込生産体制下で同一船型をレディーメード形態で繰り返し建造する規格船「ストックボート」方式を導入した。

大正7(1918)年に入ると播磨造船所は大型鋼船建造に全力を傾注し、船鉄交換船「EASTERN SHORE」[第8與禰丸](6,806総㌧)、「與禰丸」(船主:帝国汽船、6,780総㌧)、「八重丸」(船主:帝国汽船、6,781総㌧)ほか6隻を相次いで起工。大正6(1917)年に4隻であった進水数は翌大正7(1918)年には13隻に急増する。

大正5、6年頃の播磨造船所での船体の建造は、すべて人力作業であった。また汽機、汽缶(ボイラー)はほとんど阪神方面へ外注し、また中古品を修理の上艤装ぎそうしたが、需要激増のためなかなか発注先が見つからないためやむを得ず自ら汽缶を製作することになった。「大圖丸」(船主:内田汽船、2,726総㌧)、「第16宇和島丸」(船主:宇和島運輸、1,222総㌧)などの汽缶は設備のない野天作業場で杭打作業の要領で胴突を落下させて板曲げを行うなど昼夜兼行で作業を続けた。

「EASTERN SHORE」、「與禰丸」など大型鋼船の進水当時はまだ60トンワーフ・クレーンが完成していなかったので、汽缶の船内への積み込みに際してはこれを人力で船台に運び、舷側の外板および肋骨を取り外して横から滑らせて積み込んだ。

このように、当時の技師たちは不完全な設備の下で知恵を絞り、体当たり的に船体の建造を進めた。学校を卒業したばかりの者でも、全く参考書や資料のないところで短時間の間に進水計算などを実施し、新設船台の最初の進水時に要する船台沖の深水を確保する浚渫しゅんせつ作業を行うなど、彼らの努力は並大抵のものではなかった。

播磨造船所の歴史⑤

  • 甲崎第2期海面埋立工事 
  • 貨物船「WAR AMAZON」[第6與禰丸]の進水式(大正7年1月12日)
  • 汽缶(ボイラー)製作現場

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