鈴木商店こぼれ話シリーズ(54)「鈴木商店須磨邸宅は、元々は明治・大正期の鉄道実業家"村野山人邸"」をご紹介します。
2025.5.28.
鈴木商店絶頂期の象徴とも言える須磨大手の本宅は、40,000坪ほどの広大な敷地内には池が設けられ住まいは木造二階建てのアールヌーボーデザインの洋館が建っていた。お家さん・鈴木よねは、創業地の神戸栄町4丁目の本宅に住み、行事の際須磨の別邸に出向いていたが、大正6年より須磨を本拠とし、「東須磨大手本家」と称されるようになった。 (東須磨大手本家での記念撮影)
大正6(1917)年、鈴木よねの援助によりわが国初の公立女子商業学校「神戸女子商業」が誕生すると同年7月より同校の女子生徒(その後卒業生を含む)を全員須磨の邸宅に招き、盛大な懇親会を催した。模擬店を開いたり、遊戯会を行ったことが同校の同窓会・姫百合会誌に残されている。
この度、この鈴木商店須磨邸宅が元々は明治から大正期の鉄道実業家でもあり政治家、衆議院議員、兵庫県神戸区長等を歴任した村野山人(さんじん)氏の邸宅だったことが判明した。同氏(嘉永元年7月8日(1848年8月6日)~大正10(1921)年1月13日)は、山陽鉄道を始め、豊州鉄道(福岡~大分)、神戸電気鉄道、阪神電気鉄道、南海鉄道、京阪電気鉄道等々各社の創設、経営に関わったほか、神戸商法会議所(現・神戸商工会議所)の創立委員および同会頭を務めた。鈴木商店創業者・岩治郎も神戸商法会議所創立委員でもあったことから村野氏との接点があったようだ。村野山人邸が鈴木家に正式に移った時期は、大正6年1月だったことが判明した。
昭和2(1927)年、鈴木商店破綻後、東須磨大手本家の屋敷は、三菱重工業・神戸造船所山畑社宅(神戸市須磨区若木町2丁目)として生まれ変わり、低層の集合住宅11棟が立ち並ぶ大規模社宅であったが、近年居住者が減少したことから近く再開発の計画が進められると見られる。