鈴木商店こぼれ話シリーズ㉝「料亭「吉兆」創業者・湯木貞一を支えた茶人・高畑誠一」をご紹介します。

2018.8.19.

amakara_01湯木貞一.jpg日本料理の名料亭「吉兆」の創業者・湯木(ゆき) 貞一(ていいち)(明治34(1901)年5月26日~平成9(1997)年4月7日)は、日本文化に対する高い見識を料理に取り入れ、日本料理界の地位向上に貢献し、料理人として史上初めて文化功労者となった。

昭和5(1930)年、大阪市西区新町にて「御鯛茶處吉兆」を開業したのが「吉兆」の始まりで、湯木は間もなく茶道を本格的に習い始め茶懐石を料理に取り入れ、料理の品格を高めたいと日本料理の地位向上と茶道に傾倒していくようになる。

古くは広く茶の湯全般を意味し、やがて少人数のあらかじめ招待された客を対象にして亭主が行う密接な茶会に変わった「茶事」を湯木は、茶の湯において食事(懐石)を伴った正式な客のもてなし方に発展させた。

「一介の料亭が、しかも昭和五年に開いたばかりの、間口一間二分五里の小さな店が、なぜ株式会社になったのか。祖父は料理の天才ではあったが、当時、株式の知識はない。関西の財界人の方々が徹底的にバックアップして、知恵も資金も情報も提供してくださったから可能だった。阪急グループの小林一三さん、アサヒビールの山本為三郎さん、日商岩井の高畑誠一さん、錚々たる方々が湯木貞一をかわいがってくださったと聞く。人との接点を大切にし信頼を得ていた。信用こそが「吉兆」のすべてと気づいた。」と湯木の孫が回想している。

高畑誠一や乾豊彦(乾汽船会長、元広野ゴルフ倶楽部理事長)も吉兆の常連であり、二人とも湯木と殊の外親しく定期的に茶事を催した。高畑誠一は"清鴨庵"、乾豊彦は"不鬼庵"(乾山軒とも)と号していたほど。高畑はロンドンに駐在し、松方コレクションの収集に協力したことからも西洋美術に造詣が深くモダンな道具立ての茶事をしたと評される。

湯木貞一は、自身が収集した茶道具を中心とする美術工芸品(国の重要文化財12件、重要美術品3件を含む)の収蔵、展示を主たる目的として、昭和62(1987)年に「湯木美術館」を 開館した。高畑誠一所蔵の茶道具の名品が湯木美術館には所蔵されている。初代館長となった湯木貞一の後を継ぎ、高畑誠一の孫・高畑宗一が第二代館長を務めた。

湯木美術館が平成14(2002)年7月1日に発行した「吉兆 湯木貞一のゆめ」の中で、高畑誠一と湯木の秘められたエピソードが記されている。

"・・・戦後、日本では手に入れることが難しかったスモークサーモンを空輸で運ばせ、外国のお客に使うよう届けてくれたこともあった。そして外国のお客に対するおもてなしのノウハウを湯木に細々と教示してくれた。また、西洋料理、日本料理にかかわらず美味しい味に出合うと、その店に連れて行ってくれたりもした。

湯木は「精神的な意味で、私と吉兆の店の成長を見守り、支えてくださった大事な大事なお客様」と書いている。さらに湯木は山本(為三郎、朝日麦酒(現・アサヒビール)初代社長)と高畑の二人を「吉兆と私の大恩人」と常に感謝の言葉を口にしていた。"と結んでいる。

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