羽幌炭砿にまつわる話シリーズ⑯「往時の羽幌炭砿に思いを馳せて(町田叡光)」をご紹介します。

2018.6.22.

matidaeimitu.jpg羽幌炭砿にまつわる出来事やエピソードを紹介するシリーズの第16回です。今回が「羽幌炭砿にまつわる話シリーズ」の最終回になります。

最終回は、町田叡光(えいみつ)が羽幌炭砿閉山後の昭和54(1979)年4月から5月にかけて東急病院(東京都・大岡山)に入院中、治療の合間に執筆された回顧録「八日間のたわ言」(*)の中から、羽幌炭砿時代に関する記述を抜粋してご紹介します。

(*)回顧録は、金子直吉のすすめにより入学した高知商業時代以降の経歴・経験を中心に数々のエピソードを織り交ぜた興味深い内容になっています。充実した神戸高商時代の様子、神戸製鋼所や羽幌炭砿における活躍・苦労話などが具体的に描かれていますが、とりわけ町田と金子直吉が一貫して堅い絆で結ばれていたことが印象的です。

この回顧録の羽幌炭砿時代に関する記述では、太陽産業羽幌砿業所支配人として渡道することになった経緯、御料地であった炭鉱用地の借地にまつわるエピソード、昼夜兼行の強行工事の結果およそ2年という短期間で鉄道(「築別炭砿―築別」間16.6㎞)の敷設を成し遂げたこと、約30年間石炭を掘り続けたが、昭和30(1955)年頃からのエネルギー革命により遂に昭和45年(1970)年に閉山を余儀なくされたこと、などが語られています。

町田は「国が最も必要とするときに出炭し、殆ど必要性がなくなって止めたのだからたいした悔いはない」と語っていますが、最後に松尾芭蕉の"夏草や 兵どもが 夢の跡"の句を掲げていることからも彼の無念の心の内を窺い知ることができるでしょう。

写真は、町田叡光です。

回顧録(抜粋)については下記の関連記事をご覧下さい。

鈴木商店の歴史>金子直吉のお家再興に向けて>⑯「往時の羽幌炭砿に思いを馳せて(町田叡光)」

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