神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の第15回をご紹介します。

2016.9.5.

神戸新聞の連載「遙かな海路 巨大商社・鈴木商店が残したもの」の本編「第2部 世界へ (15)ゴム事業 担った兄弟 金子が重用「土佐人脈」」が、9月4日(日)の神戸新聞に掲載されました。

今回の記事は、鈴木商店傘下の(あずま)レザー(後・(あずま)工業[帝人の前身])のゴム工場を源流とする自動車用ゴム製品メーカー・ニチリンの姫路工場に関する記述から始まります。鈴木商店のゴム事業を担った高知出身の依岡(よりおか)省三(しょうぞう)(しょう)(すけ)兄弟の生い立ち、金子直吉と二人の出会い・二人の人となり、省輔の神戸製鋼所での活躍、省三が日沙商会を創業したこと、兄の死後省輔が跡を継いだ同社のその後、鈴木商店(金子直吉)と高知の関係を象徴する四万十(しまんと)川に架かる赤鉄橋(四万十川橋)、鈴木商店に高知商業学校(現・高知市立高知商業高校)の卒業生が数多く入り「土佐派」と呼ばれる勢力を形成していったことなどが描かれています。

gennzainokoutisyougyoukouikou.PNG故郷の高知を重んじた金子直吉は高知商業学校(現・高知市立高知商業高校)の初代校長・横山又吉と親しい間柄であったことから同校に寄付をし、鈴木商店は「市商」(同校の愛称)の卒業生を積極的に採用しました。これに伴い、鈴木商店内には同校のOBを中心に「土佐派」と呼ばれる一大勢力が形成され、鈴木商店の躍進を主導していきました。




同校は明治31(1898)年高知市帯屋町に簡易商業学校として開校しました。鈴木商店の全盛期の大正7(1918)年頃の同校に対する人気は絶大で、150人の入学予定に対し志願者は1,000人を超すほどの競争率であったといいます。上の写真は現在の高知市立高知商業高校(高知市大谷)です。

土佐派の中には金子が好んだ「くせ者」(金子は「使える人間はくせがある」が持論でした)が多く存在し、西岡貞太郎(鈴木商店下関支店長・北海道支店長ほか、鈴木商店の最長老)、隅田伊賀彦(帝国麦酒社長ほか)、岡田虎輔(米星煙草初代社長)、谷治之助(支那樟脳社長、鈴木系列企業の監査役、「鈴木の四天王」の一人)、平高寅太郎(鈴木商店台湾支店長ほか、「鈴木の四天王」の一人)、窪田駒吉(鈴木商店東京支店長、日本製粉社長ほか、「鈴木の四天王」の一人)、竹村虎雄(鈴木商店台北支店長、宜蘭殖産社長ほか)、南久寿象(市商卒・鈴木商店大阪支店長ほか)、南治之助(鈴木商店ニューヨーク支店長ほか)、楠瀬正一(市商卒・帝国樟脳取締役、鈴木薄荷初代社長ほか)、(ひさ)琢磨(たくま)(鈴木商店から朝日新聞社、土佐証券副社長)、(かえで)英吉(日商取締役、日本発条初代社長)ら錚々(そうそう)たる面々に加えて、依岡省三、省輔兄弟も人並み外れた行動力で異彩を放っていました。

※「土佐派」の社員は「高商派」と呼ばれた高等商業学校卒の社員と互いに競い合いながら鈴木商店の業容を拡大していきましたが、一方で、大正中頃から両派の間には確執が生じることになります。

金子直吉は省三、省輔兄弟を評して「依岡一家は非常に覇気があり、島稼ぎが好きであった」と評しています。「島稼ぎ」という言葉は南洋群島などの探査・踏査に従事し、事業を展開した依岡一族の破天荒ともいうべき行動力を表するため、金子自ら創作したものです。省三、省輔兄弟はともに金子直吉に見出され、鈴木商店系列の企業に多大な貢献を果たした人物として特筆されます。

依岡省三
yoriokasyouzou1.PNG依岡省三は慶応元(1865)年、高知市北新町(現・桜井町)に出生。
明治20年代から30年代にかけて小笠原諸島、八丈島などの火山列島,ミッドウェー島などの南洋群島の探査・踏査を行うとともに、硫黄島での硫黄採掘事業、和歌山県新宮町での無煙炭の発掘・販売・銀行設立、南大東島の開拓・製糖業の創始など多くの事業に従事しました。

省三は明治43(1910)年、実弟の神戸製鋼所専務取締役・依岡省輔を介して金子直吉に面会すると、熱い冒険精神と見識に感銘受けた金子は省三に支援を確約します。



早速、省三はボルネオ島のサラワク王国(現・マレーシア・サラワク州)を訪れ、鈴木商店の海外事業としてゴム栽培に着手すべく広大な農園用地租借と開発の許可を得て日沙(日本・サラワク)商会を設立しますが、翌明治44(1911)年、一時帰国中の京都にて志半ばにしてマラリアのため急逝します。そのため、後述のとおり弟の省輔が跡を継ぎ、日沙商会の事業を拡大していくことになります。

大正期に入り、日沙商会は同商会が経営するクチン郊外・サマラハン農園の中心地にある高地に依岡神社を建立しその霊を(まつ)りました。この神社の遺構は今も現地に存在しています。

「依岡省三伝」に金子直吉が寄せた序文にはおよそ次のような内容の一文が記述されており、省三の人となりを彷彿とさせます。
「省三君の偉大なる人物であった証拠として、小生の脳裏に極めて深い興味ある印象が残っている。すなわち同君の人となりは、未開地を開拓し有用化することが三度の飯よりも好きで、これがためにはいわゆる生命を鴻毛(こうもう)よりも軽んずるの気概あり、いかほど危険な仕事でも平気で一身を投ずる志を持っていた。しかも、言葉使いは極めて静かに、極めて穏やかであった。しかし、風貌は昔の加藤清正とか佐久間玄蕃(げんば)盛政とかいうような堂々たる偉丈夫で、少々無理難題を云われても即座に押返し断ることの出来ないような威力を備えた人であった」

yoriokasyouzoutogennjyuumin.PNGさらに「金子直吉伝」によれば、金子は省三を評しておよそ次のように述べています。
「まず依岡と云う男は強い実行家であると共に、一つの達見(たっけん)を持っていた。わたしが省輔君の紹介に()って会った時に()う云うことを云った。『日本は天然資源の少ない国である。もう今日では平和主義で植民地をこしらえなければならぬ。あえて流血の惨事を演じて世の中を騒がせんでも、平和の中にそれ(くらい)のことは出来るであろう。即ちそれは拙者(せっしゃ)が遠からぬうちに必ずやって見せる―と』と。随分大言壮語であって、実は疑っていたのであるが、御承知の通り、日沙商会に()りゴム栽培事業をサラワック国と契約され、後、鈴木商店がその仕事を引き取ってやることになった」

金子は、「平和主義で植民地をこしらえなければならぬ」と言い「それは拙者が遠からぬ中に必ずやって見せる」と言った省三の見識と気魄(きはく)に心を打たれたのでした。

上の写真は、サラワクでの依岡省三(中央)と関係者、原住民です。

依岡省輔
yorriokasyousuke3.PNG依岡省輔は明治6(1873)年、高知市北新町(現・桜井町)に出生。
鈴木商店で金子直吉の先輩幹部社員であった坂出楠瀬の身内ということから金子を訪ね就職の相談をしたことが発端となり、鈴木商店への入店が決まります。入店に際し金子から「おまんの最も得意とするところは何ぜよ」と問われ、省輔は「私は別段優れたものは持っていません。強いていえば、体が大きいから人並み以上に大食いすることと、知事や将軍を説き伏せることくらい」と答え、金子に認められたという逸話が残されています。

省輔は神戸製鋼所の製鋼材料を呉海軍工廠へ売り込むに際し、呉一流の吉川旅館に陣取り、ときの竹内鎮守府参謀長(少将)、伊地知工廠長(少将)、有坂砲熕(ほうこう)部長(大佐)、伍堂工務主任(少佐)ら幹部を招いて宴席を設け、金子直吉の人脈を背景にしつつ派手な外交を展開し、期待通り揚弾機部品の受注に成功します。その後、省輔は神戸製鋼所の専務取締役に抜擢され、常務取締役・田宮嘉右衛門とのコンビで神鋼発展の基礎固めに大いに貢献します。

「金子直吉伝」によれば、依岡省輔の功績については神戸製鋼所内の記録に次のように記されています。
「明治四十二年十一月、株式会社神戸製鋼所専務取締役として就任、爾来在職十八年間、同社が神戸脇浜における一小工場たりし時代より鋭意これが成長に尽瘁(じんすい)し、良く陸海軍需品の用命を果し、国家国防の上に貢献した。而して、依岡の経営よろしきを得たため、逐次内容の充実と施設の完備を見るに至り、現在公称資本二千万円、全国各地に於ける分工場並に満洲に於ける満洲鋳鋼所を擁して、斯界(しかい)に貢献すること大なり。これ、実に依岡の刻苦経営の功至大なるものによる」

明治44(1911)年に日沙商会を創業した兄・省三が亡くなると大正6(1917)年、省輔は金子直吉の委嘱を受けて兄の遺志を継いで同社を株式会社に改組し、初代社長に就任(神戸製鋼所専務取締役と兼任)するとともに鈴木商店との関係を強め、神戸に本店を、サラワク・クチンに支店を設けて鈴木商店の海外事業会社としてゴム栽培、石炭採掘を中心に事業を展開しました。

さらに、(みぬ)()神社(神戸市灘区岩屋)に隣接していた鈴木商店傘下の(あずま)レザー(後・(あずま)工業[帝人の前身])の敏馬ゴム工場を継承して、ゴム栽培から製造までの一貫体制を整えました。その後日沙商会はゴム部門を分離し、大正3(1914)年、日沙商会の敏馬ゴム工場の一角に日本輪業が設立され、現在のニチリンの歴史が始まります。

また、日沙商会は大正8(1919)年、三井系の帝国堅紙と合弁で東洋ファイバー(現・北越東洋ファイバー)を設立し、ファイバー(硬質繊維板)の製造を事業化しました。

mniriwagomu.JPG上の写真(左)は敏馬神社の境内に掲げられている敏馬の浦より望む大正期の日本輪業(煙突のある工場)と敏馬神社(右端の森)、右は現在の敏馬神社です。

省輔は昭和2(1927)年に鈴木商店が破綻すると、管理者となった台湾銀行の横柄さに我慢ができず神戸製鋼所を退職し、以後は神戸製鋼所時代より社長を兼任していた日沙商会の経営に精力を傾注し残りの人生を捧げました。

省輔は神戸製鋼所、日沙商会のほか、桜麦酒、日本冶金、信越電力、東洋ファイバー、日本エアブレーキなどの役員に就任し、鈴木商店系列の多くの企業にも多大な貢献をしました。東洋ファイバーのファイバー事業、日本冶金(現・東邦金属)の電球用フィラメントの国産化のいずれもの省輔の発案によるものです。

昭和12(1937)年に省輔が亡くなった後もサラワク王国と鈴木商店の信頼関係は維持され、日沙商会はボルネオ産業と改称し事業展開をはかりましたが、第二次世界大戦の敗戦によりすべての事業・資産を失ったため昭和20(1945)年、40年近い同社の歴史に幕を下ろしました。

依岡省三、依岡省輔については下記をご覧下さい。

人物特集>依岡省三
人物特集>依岡省輔

今も金子直吉の郷土愛を形として見ることができる四万十(しまんと)川の赤鉄橋

akatekkyou4.PNG故郷、高知に対する思い入れが強かった金子直吉は土佐派の社員とともに中村町に寄付をし、大正15(1926)年7月、四国最長196kmの一級河川・四万十川に通称「赤鉄橋」(正式名称:四万十川橋、(わたり)(がわ)橋とも呼ばれる)を建設しました。鈴木商店が受注し、鉄材製作を神戸製鋼所が、架設工事を鳥羽造船所(当時は、神戸製鋼所鳥羽造船工場)が請け負った総工費50万円、鉄材2,000トンを超える大型工事で、金子の人脈をフルに活用して受注したと推測されます。上の写真(左)は竣工当時の赤鉄橋、右は補修を重ねつつも現役として働き続けている赤鉄橋で、今も金子直吉および鈴木商店土佐派の社員の郷土愛を形として見ることができます。

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