辰巳会・会報「たつみ」シリーズ⑭「第14号」をご紹介します。

2020.11.24.

たつみ第14号表紙.png 「たつみ第14号」は、昭和46(1971)年1月10日に発行されました。前年5月以降、浅田長平(神戸製鋼所元社長)、橋本隆正(太陽鉱工元専務)、沢村亮一(鈴木商店元支配人)など52名の辰巳会会員が逝去され、神戸・祥龍寺に建立された「辰巳会供養塔」に合祀されたことが報じられています。取り分け辰巳会設立発起人の一人で、その運営に並々ならぬ熱意を傾けられた橋本氏を失ったことは辰巳会にとって大損失と本号編集後記に記されています。

 本号表紙裏には、大正7(1918)年に米国との間で成立した「日米船鉄交換契約」を祝し、モリス大使ほか米国関係者を神戸常盤花壇に招いた祝宴の記念写真(大正8年5月)が掲載され、これに関連して「日米船鉄交換同盟史」の抜粋が巻頭を飾っています。

 また、本号には鈴木直系会社のうち"浪華倉庫"について、実際に同社に籍を置いた関係者の貴重な投稿が3号に亘って連載されることになりました。

◇「金子氏、モリス大使と会見 ~日米船鉄交換同盟史より抜粋~」

 第一次世界大戦時、大正5(1916)年英国、ドイツが、翌大正6(1917)年には米国が鋼材の輸出禁止政策を打ち出すとわが国の造船業は深刻な事態に直面。日米両政府による交渉は不調に終わり、金子直吉、浅野総一郎を中心とする主要造船業者は、直接新任の駐日米国大使・ローランドモリスに船舶と鉄材の相互交換を提案、再三の交渉の末、大正7(1918)年決着をみた。日本の造船業を救った「日米船鉄交換契約」の経緯は、後に「日米船鉄交換同盟史」として編纂された。(大正9(1920)年"日米船鉄交換同盟会"により出版)(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。)

◇「浪華倉庫と帝人事件(1)」 広岡一男

 鈴木商店破綻により鈴木系直系会社が台湾銀行の管理下に置かれる中、筆者が籍を置いた「浪華倉庫」も同様の措置を受けた。台湾銀行より役員、経理部長のポストの他、数名の行員が出向して来た。下関支店長に任じられた30代だった筆者は、定期的に東京丸の内の台湾銀行(台銀)に業況の報告に上京した。

 昭和8(1933)年、台銀の主導により浪華倉庫は渋沢倉庫に買収され、新たなスタートを切ることになった。台銀と渋沢倉庫との折衝は極めてスムースに運んだが、翌昭和9(1934)年、天下を震撼させた「帝人事件」が起こり、浪華倉庫の命運を左右した台銀の頭取を始め幹部が検挙されるというショッキングな出来事があった。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。) 

◇「製糖の沿革」 ~神戸の製糖工業~

 日本製糖工業の創成期、鈴木商店の金子直吉と湯浅商会を興した湯浅竹之助の2人の神戸商人の存在が注目される。金子は、明治36(1903)年門司・大里に建設した"大里製糖所"を足掛かりに鈴木の多角化を進め、さらに台湾製糖業にも大きな足跡を残した。

 一方の湯浅は、湯浅商会を創設して、明治36(1903)年、神戸に"湯浅製糖所"を設立した。後に"神戸精糖所"と改称し、一時は大日本製糖、横浜精糖とともに輸入原糖による3社時代を成したが、後に台湾製糖に合併された。

 神戸における製糖工業は、神戸精糖所を吸収した台湾製糖が神戸工場の生産能力を拡張し、神戸は明治末期から大正期に日本有数の地位を確立。第二次世界大戦後は、台湾製糖の第二会社として誕生した"台糖"が旧神戸工場の復旧を目指したが、其の後は医薬品メーカー(台糖ファイザー)に転身、代わって名古屋製糖の神戸工場が神戸の製糖工業の主役となった。(詳細は、下記の関連リンクをご覧ください。) 

◇「(合)鈴木商店の履歴書」 ~覚書から~

 明治7(1874)年、鈴木岩治郎によって創業された鈴木商店は、明治35(1902)年に合名会社に改組し、神戸経済界に華々しく登場した。「(合)鈴木商店の履歴書」と題する創業から合名会社時代までの沿革と明治42(1909)年、鈴木の尖兵として設立された日本商業の概要が"覚書から"として紹介されている。

 この覚書が何時、誰によってまとめられたものか不明だが、鈴木商店の創業が明治10年と記述されているのは誤りで、後年、金子直吉により明治7(1874)年なることが明らかにされている。(神戸倶楽部沿革史のうち鈴木岩治郎氏略歴(昭和13年発行)) (詳細は、下記の関連資料をご覧ください。) 

◇「続 宇治川夜話(済美寮編終稿)」 黄旗亭(木畑龍治郎)

 東川崎町の宇治川沿いの本店時代(旧みかどホテル)を過ごした筆者は、"宇治川夜話"と題して鈴木時代のエピソードを度々投稿しているが、たつみ第12号から3号に亘って独身寮「済美寮」についても思い出を綴っている。

 本号では"済美寮編終稿"として「中山手済美寮」で過ごした日々を振り返っている。東川崎町の本店焼失後、宇治川の仮社屋のバラックから海岸通10番地の白亜の城郭に本店が移転する大正10(1921)年に前後して中山手7丁目に「中山手済美寮」が落成した。2階建て4棟の堂々たる建物で、200名近い独身者が起居することになり、布引済美寮(元オリビヤホテル、通称オリビヤ)と並ぶ宿舎であった。

 

 

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